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空を眺めるだけの仕事がしたい、と彼女は言った。

「空を眺めるだけの仕事がしたい」


「どんなことでも仕事になるとしたら、何を仕事にしたいですか?」

そんな質問があって、妻と散歩しながら話しているとき、彼女が答えたことは、

「それなら、ただ空を眺めているだけの仕事がしたい」

ということだった。

何となく聞き流していたけど、色々聞いていると、どうも本当に「空を眺める」のが子供の頃から好きだったらしい。

しかし、最近はあまり空を眺めるようなこともしていない、と。

なぜ?

「時間のムダだと思ってしまうし、なんか虚しくなるから」

ただ空を眺める、それだけのことを私たちは忘れる

気持ちはよくわかる気がした。

空を眺める、という行為そのものには、何の費用もかからない。
移動もほとんど必要ない。
時間を選ぶ必要もない。

ただぼんやり頭を上げて、青空や雲の流れを見ていればいい。

それはそう。それで、十分じゃないか?

でも、確かに何かが足りなくなる。

なぜだろうか。

何かに追われているからか?
切迫感があるから?
悩んでいるから?
忙しいから?

色々な理由があるだろう。そして、多分、
「元々空を眺めるのが好きな人」が、「空を眺める習慣を失う」理由は、
一つではない。

種々の要素が積み重なって、「空を眺めない生活」になるのだろう。

自分自身、よく空を眺めているか? というと、そうではないような気もする。
そして、自分も、空を眺める時間を大切にする、ような人間でありたいと思う。

石ころだってよく見れば面白い形をしている

これと関係があるように思う、一つの事柄がある。

こんなことを言うと、引く人がいるかもしれないが、
自分は子供の頃は、旅行というものがあまり好きではなかった。

行ったら行ったで、楽しんでいたとは思うのだけど、
根本的には、「なんかイヤだな…」という感覚を持っていた。

それは、両親が計画したものに、勝手に連れていかれる、という、
自分の意志とは異なる判断に付き合わされている、のがイヤだった面もあるのだろう。

しかし、子供なりの考えとして、割にはっきりと、下記のような考えを持っていた。

「旅行に来たからといって、普段興味がないものにわざわざ注目するのは、おかしいんじゃないのか?」

つまり、自分はそもそもお寺に興味がないのだから、旅先でもお寺を見る必要はない。
山に興味がないのだから、山を歩く必要もないし、
魚にも興味がないから、水族館に行く必要もない。

パパもママも、別に、寺、山、魚、そんなものが普段から好きな訳じゃないでしょ?
じゃ、わざわざ見る意味ないじゃん。

……

「……いや、それは君、少しは好奇心を持てよ(笑)」

という話かもしれない。実際、いかにも子供らしい考えだと思う。

しかし、自分はその点、子供心に反抗心があって、

「河原の石の形はよく見ると面白いし、
空の雲もよく見ていると面白い形をしている」

「ただ別に、それは近所の石でも、空でも、大して変わらない」

「僕はこの旅先の河原に見ても、あえて石を見る! その方が面白いから」

というようなことを、はっきりと言葉にしないながらも、考えていたように思う。

実際、その当時の自分は、通学の途中で、よく道端の石を眺めていたようだ。

誰でも子供はそうしたものだろうけど、通学路の途中でも、

・木陰にテントウムシを見つける。
・道端に誰かが植えた、プチトマトの苗木を発見する。
・空き地に鬱蒼と生えた雑草の、草いきれの匂いに驚く。
・毎日必ず同じ家の柵の中の犬を見る。

など、どうでもいいようなことに注目して、
そして、それは旅行以上に旅っぽく感じていた。

名所旧跡を巡る旅も、観光地を巡ることに意識を集中させたら、
つまらなくなってしまうだろう、と、この歳になっても思う。

「旅行に来てまで、普段できるようなことをするなよ」

それはそうかもしれない。
でも、あえて普段できるようなことをするために、旅に出る、というような考え方もある。

大人になっても、旅の目的地そのものよりも、
行きの新幹線で喋っている時間だとか、そういうことの方が印象的な場合も多い。

目的地を考えるからつまらなくなるのか

上記のような話は、人生の暗喩というか、縮図のようだな、とも思う。

人生には人生の、観光地ないし、目的地がある。

例えばそれは受験だったり、就職だったり、昇進、結婚、出産、入学、卒業、また、年に一度の旅行だったりする。
また、資格試験であったり、起業することであったり、何かを積み上げる、ということだったり、体を鍛えたりすることだったり、時にはパン焼き器でパンを焼くこと、だったりする場合もあるだろう。

実際、人生には点から点へ、
目的地から目的地へ向かっていく、という側面は必要だ。

それがあまりにもなさすぎると、それはそれで困った生き方になってしまうと思う。

一方、これに束縛されすぎると、それこそ、
「ただ空を眺める」というような単純な喜びを忘れる。

実際、空は馬鹿にならない。
多様な情報に満ちているし、
刻々と変化するし、
時期によっても違うし、
色彩のニュアンスも、神秘的なほど深い。

これは、別に観光地の浜辺に行かなくても、
やっぱり同じことで、近所の公園でぼんやり空を眺めていれば、感覚できることだ。

現代社会においては、
大人になることと、上記のような目的地にばかり注目するようになることは、連動している。

本当に無用の人のようになって、ただ楽しむためだけに空を眺めるのは、
非常に簡単なのに、実はかなり大胆さを要求される行為なのかもしれない。

神秘的な夕暮れ

妻とそんな話をしてから、実際に空を眺めてみた。

段々夕暮れになってきて、空の色が不思議に変化していくのを二人で楽しんだ。(1歳の娘もそのそばで遊んでいた。)

一人で空を眺めるのと、人と一緒に眺めるのとでは、
また感じ方も違ってくる。

言葉にしてみると、不思議で、
暮れていく空の色は、綺麗なのだけど、どこか陶器の色のようにくぐもっていて、神秘的なニュアンスを帯びる瞬間もある。

「この時期の葉っぱは、色が濃いんだね。じっと見ていると、浮き出すようで、サイケデリックな感じがする」

家へ帰っていく道は、夕暮れの中に白い電灯がつき始めて、
それも綺麗だった。

「子供の頃から、こういう夕暮れの景色が好きだったの、思い出した。」

自分も、そんな気分の中で歩いていると、ただ近所の道を歩いているだけなのに、なぜかすごい感覚になった。

確かに、その日の夕暮れは綺麗だった。時期もよかったのだろう。
だけど、こんな話をしているのじゃなかったら、これほど深い気分を味わうことはなかったと思う。

今日は凄まじく夕暮れが綺麗でした、なんて、ニュースでやるようなことはないしね…

ただ空を眺めるような時間を持って、生活したいと思う。

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