気負わず、気ままに作ることを、所ジョージに学ぶ
作る、という欲求
何かを作る、ということがしたい、と思っても、それを続けることは案外ハードルが高い。
「自分より遥かに上手い人がいるしな」
「こんなことやっても、仕事にも勉強にも足しにならないし」
「そもそも、ひどい自己満足だしな」
そう考えると、手が止まってしまう。
しかし、一方で、「作りたい」という欲求には何かがある。
これは、上記の、頭のなかの言葉になぞらえていうのであれば、
「別にヘタクソでも充足できる」し、
「なんの足しにもならなくても、それ自体をすることが嬉しいこと」だし、
「自己満足で十分」であるようなものだ。
一部の人にとっては、一生のなかで、やっぱり、
それをやらなければ、人生が灰色のまま、
になってしまうような事柄がある。
結局、何かを作る、ということを続けなければ、
他の代替手段ではダメなのだ。
だとすると、こういう一見ムダなことを、
ちゃんと続けていくための、マインドセットが必要になる。
逆自己啓発、みたいなものが。
創作を続けるための所ジョージ主義
所ジョージは、その点、かなり意識的な人なのだろう、と思う。
例えば、この動画では、所ジョージが自宅の庭から朝日が登るのを眺めるためだけに、早起きして、外で時間を過ごす。
それだけの動画なのだけど、見ていると、
うーん、確かに、こういうスタンスが必要だよな、
と思わされるところがある。
あえてムダなことをする、のは、意外と難しい。
資本主義の世の中に生きていると、どうしても日々の生活の一つ一つが、
・意味
・価値
・生産性
・他者への貢献
こういうものに束縛されてしまう。
これはもう、現代人であれば無意識レベルに刷り込まれている。
例えば、学校の勉強につかれた中学生が、
「こんな勉強して、何の意味があるんですか?」
と聞くとき、
子どもは自分で発想するようでいて、実際にはこの論理を再生産している。
本当は、
「いや、君、むしろ、そこで砂遊びでもしていなさい」
と教えるような感覚が必要だと思う。
これは自分自身に対しても同じ。
「こんなこと、何の意味があるんだ?」
と聞きたくなったら、
「そんなことを考えているヒマがあったら、空でも眺めていなさい」
と自分を諭していく。そんな姿勢がいい。
ムダなことをする習慣をつける
創作は本来、こうしたムダに向かってなされることだ、と思う。
むしろ、そういう空白への挑戦がなかったら、それはアートではない。
作ることだけでなく、生活上のいろいろなことで、
あえてムダなことをする、ということを習慣化させる。
そういう解毒をしていった先に、
自然な創作を、心のままに続ける境地、を得られるのではないか、と思います。
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