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[創作論メモ]小さな魚をあつめる

いま書いている断片的な小説集の位置づけについて、友人のひとりから下記の質問を受けたので、この機会に創作への現状のスタンスを言語化しておきます。これは、小説・詩を中心にした話ですが、同様の考えは音楽にもあてはまります。

質問:
・この作品は、一話一話、詩として完結しているのか?
・それとも、これらを元に、長い作品をつくるつもりなのか?
・あるいは、このまま断片を並べていくつもりなのか?

結論だけ先にいうと、答えはどの質問に対してもYesです。その理由を説明します。

※小説の作品については、今のところnote上には掲載していません。公開の方法については、検討中です。

内的ビジョンに即した創作

まず、基本的にすべての断片は、作為的な意識をできるだけとり払い、自分の心に生まれてくる内的ビジョンに沿って書く、という意識でつくっています。
断片ごとのテーマや狙いなどは全くないです。本当に、ただノートに向かって、頭に浮かんだ白昼夢のようなイメージを書いていくだけ。
実際、「さあ、書くぞ」となったら、適当にしりとりとか、連想ゲームのようなことを書きつけていって、その後、ふいに塊のイメージが出てくる感じです。
だから、断片の作品としての成立根拠は、僕の心的論理にしかないです。一応、作家(?)としての誠意は尽くして、作為の混ざり物ができるだけ少ないものを書いているつもりではあります。これが単なるひとりよがりになっていないことを祈りたい。

Big Fish理論

他の記事でも書いていますが、デヴィッド・リンチのBig Fish理論を参考に創作を行っています。
この理論はだいたい下記のような話です。


アイデアとは魚であり、その魚のエサは、「アイデアを手に入れたい」という欲望。小さな魚をつかまえると、だんだんその周辺に別の魚が集まってきて、やがて大きな魚を得ることができる。


本格的に作品づくりを再開したのは、1ヶ月前くらいです。だから、本当にこの創作プロセスで、Big Fishを得られるのか? は正直わからない。でも、何となく手ごたえを感じているのも確かです。

いずれにせよ、創作している一つ一つの断片は、小さな魚にあたります。そういう理由で、作品集は『small fish』と名づけています。

「大きな魚 = 小さな魚の集合体」というわけではなく、後から大きな作品が登場するとしても、その作品も自動筆記的な手法で書かれる予定です。その際、古い断片はつよい影響を及ぼしますが、一旦はすべてリセットされ、忘却されます。

したがって、small fishはsmall fishとして、これっきりの命というか、独立した作品性を持ってくれるようにして行きたい、と思っています。

偶然的モチーフの反復と成長

断続的ながら、けっこう長い間、一人で作品を書いている中で、何度も同じモチーフが作品のなかに出てくる、ということが、よく起こります。

10年越しぐらいで同じモチーフが出てきて、かつてそうしたイメージが出てきたことの意味が、後になって何となくわかる、というケースがかなりある。

共通のモチーフや気分が、それぞれの断片のなかで、異なる仕方で反復され、書いている側としても、よく意味がわからないながら、どこか「深まっていく」という感じがしている。

だから、small fishに含まれる断片のなかにも、(人にみせていない作品のなかで)実はすでに何度も登場していたモチーフがいろいろ含まれています。

『small fish』も、一つの作品集として、こういう精神的探究のプロセスを一緒に経験できるようなものにして行きたい、という気持ちもあります。まあ、友人・知人のみんながそこまでついてきてくれれば、の話ですが 。

創作観についての比喩

自分の創作に関するスタンスは、たとえば、「流木拾いを趣味にしているおじいちゃん」のようなものだと思う。

毎朝、近所の海辺に歩いていって、「おっ、この木は面白いかたちだ!」といって、興奮して流木を持ちかえる。くだらないものも多いし、時々、わりと立派なやつもある。

こういうことを、河原のような実在の自然のなかではなくて、自分の心をフィールドとして行う。実際、できるだけ毎日、何かを作るようにしたいと思っています。

そんな感じ。
だから、基本的にすべて自己満足の断片です。しかし、世の中、案外「わたしは流木を眺めるの、けっこう好きです。この哲学がわかる」という人も、いるんじゃないか? と期待してるんだよね。


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