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いい文章は「説明する」のではなく、「見せる」


なぜか惹かれる文章

なぜか惹かれる文章がある。

普段はただ、「いいな」と思っているだけで、それについて深くは考えない。
でも、せっかくこうして物を書くのなら、いいと思うものを、もう少し言語化してみようかな、と思った。

もう半年以上、『文学ラジオ』というのを継続的にやっていて、
ここでも色んな小説についての思考を言語化している。

改めてそこで話していたことを思い出すと、その瞬間は思いついて言っているだけのことも、
妙に記憶に残っている内容がある。

これは自分にとっても発見だ。

小説や文章を、単純に流すようにして読んでいくのも一つだけど、
少ない文章についてしっかりと、自分の心に生じた印象を言語化する、
このような作業も、文章修行には非常にいいのだろう、と思う。

だから、ヘミングウェイの短編集をパラパラとめくっていて、

ああ、やっぱり、これは、なんかいいな。

と思う箇所について、その理由をこの記事で言語化してみようと思う。

『季節はずれ Out of Season』の冒頭


ホテルの庭園に鍬を入れて稼いだ四リラで、ぺドゥッツィはすっかり酔っ払ってしまった。

On the four lire Peduzzi had earned by spading the hotel garden he got quite drunk.

『季節はずれ Out of Season』

今回取り上げてみたいのは、『季節はずれ』という短編の冒頭箇所、ここだけ。

この作品がどのような内容の作品なのか? は、敢えて説明しなくてもいいと思う。

逆に、作品の全貌が見えない状態の方が、この文章を読むにはいい。

これ以上何か説明があるわけではなく、この作品は、この一文からスタートする。

個人的には、これを読んだ時、
「ああ、これはいいぞ。グッとくるな…」

と思ってしまう。

この感覚は、初読のときだけでなく、今、こうして目の前で読んでいても、やっぱりそう思う。

そう考えると、よっぽど気に入っているのだろう。

ある短編、ある小説において、こういう一文が冒頭に投げ出されるように書かれていること。

そのこと自体に魅力がある。

この一文から読み取れる情報

読み手としては、この文で小説世界が始まってしまった以上、ここからできるだけ多くの情報を拾っていくしかない。

例えば、この一文から読み取れる情報は何だろうか?

・まず、ぺドゥッツィという人名は、イタリア人らしいので、舞台はイタリアに関連すること。

・ぺドゥッツィは、かなりその日暮らしの生活を送っているらしいこと。

・酒手を得るために、小間使いのような労働をしていること。

・おそらくそうした労働は結構しんどく、時間がかかること。

・ぺドゥッツィは飲んだくれで、おそらく酒漬けの生活を送っていること。

・ぺドゥッツィがあまり定職などについていなそうなこと。

・4リラというお金が彼にとって貴重であること。

こうした情報が、完全に確実に取り出せるわけではないが、大きな輪郭としては浮かび上がってくる。

ここに何を読み取るかは、読み手によってすでに変わってくるところだろう、と思う。

例えば、このぺドゥッツィという人は、老人らしいのだが、こうした年齢の情報は読み取れるだろうか?

ちょっと難しいのではないか。

自分は、この部分を読んだとき、最初はもう少し若い人物を想像していた。

こういう、解釈の揺らぎ、みたいなものも、この作品を読み進める上での魅力の一つではある。

いずれにせよ、一文の中に、こうして色んな情報を読み取っていくと、
すでにこの文を巡る解釈の中で、ぺドゥッツィという人物や、作品が対象とするシーンが浮かび上がってくる。

この後の場面で、ぺドゥッツィはアメリカ人の夫婦に釣り場を案内する仕事をする。これが、彼にとって非常に楽で、割りのいい仕事である、ということが、この一行から暗示されている。

時間的な圧縮

また、この文章に表れている、時間の経過、についても注目したい。この文の中で、時間がどのように扱われるか、というと、

・まず、ホテルの庭を鍬で耕す、という、比較的時間のかかる作業をしている。

・その次に、その代金としての4リラを、ぺドゥッツィは誰かから受け取る。

・そして、その4リラを持って、ぺドゥッツィは酒場に行く。

・それから、一定の時間をかけて酒を飲み、大いに酔っ払う。

・そして、そんなふうに酔ったぺドゥッツィが、今そこにいる。

このような動作が、圧縮されて書かれていることがわかる。

あっさりしているようでいて、こういう文を書くのは、実際は非常に難しいと思う。

むしろ、過程の区分としては、かなり別々のものがあるわけだから、こうした作業行程をいちいち書いてしまった方が、ずっと簡単だろう。

しかし、そう書かないことに、文章の真髄のようなものがあると感じる。

文の中での時間展開をどのように扱うか、は、小説の身体性(?)そのものだ。

まとめ

「説明する」のではなく、「見せる」ことを意識すべし、
というのは、創作作法では常識に近い。

そういう点では、この一文は特別ユニークな存在ではないのかもしれない。

が、おそらくこれほどドライに「示していく」タイプの文体は、そう簡単に見つからないのではないか。

「これもそうじゃない?」という例があれば、ぜひ教えてください。

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