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表現したい、という欲求とは何か?

「表現したい」と思ったことがない。

長い間、こういうブログのようなものを書くのに抵抗があった。

最近、少し思うところがあって、
①頭に浮かぶことを文に起こしてみる。

と言うことを続けていた。

そして、それを妻と友人の2人に送り続けていた。

そんな中で、さらに、
②せっかく書くなら、ネットにも出す。出せるように書く。

という考えが出てきた。

これをすることに何の意味があるのか?
それはわからない。

むしろ考えないようにしている。

やってみたい、と思うから、やってみる。

自分が課題に思っているのは、こういう単純な発想に自分が蓋をしてしまっているな、と言うことで、

まずはそんな殻を破ってみたいと思っている。

小説や芸術が好きで、
ずっとこのジャンルには思いをかけてきたように思う。

自分には、「書きたい!」という、迸るような情熱はない。

だが、なぜかずっと書き続けてきた。

なぜなのだろうか? と思う。

一つの答えは、「考えるため」ということだ。

中高生の頃は、自分は哲学に関心があると思っていた。

今も関心がないわけではないのだが、
学生時代に、カントやハイデッガーなどを読むうち、
「どうも、これは自分の思考様式ではないな」
と感じるようになった。

その後に出会い、こういう道はありえるかもしれない、と感じたのは、

カフカ、川端、ヘミングウェイ、大江、などの作家の作品を読むようになってからだ。

また、保坂和志さんの評論?もよく読んでいた。

自分はこうした作家に倣って、自分の思考の仕方を形づくりたい、と考えていたが、

その道を追求するのを、どこかの段階で諦めてしまっていた。

そして、今はやっぱり諦めたくない、このまま漫然と過ごしても、意味のある人生にならない、と感じている。

だから、何かを書こう、くだらなくても、独りよがりでも、やってみよう。そう思っている。

そんなことを考えていると、自分にとって「表現」とは、より深く考え、より深く感じるための手段なのだろうか、と思う。

SNSの語り

下手をすると人の気分を害しかねない考えかもしれないが、

ネットで色んな言説や投稿が溢れているのを見ると、
特に、自分が発信する側として、何かを出すということが、すごく怖くなる。

この心理はなんなのだろうか?

基本的に、自分はSNSが嫌いだ。
何かしら発信するべきなのだろうか、と思って、あれこれ見ていると、段々気分が悪くなってくる。

そして結局本に戻る。

自分の思考も、ノートに書き出すか、人と話すか、で基本的に完結させてしまう。

おそらく、人の耳目を引くために、自分の思考を歪める、ようなことが嫌なのだと思う。

言葉は無意識に対しても影響力があり、
例えば必要に応じて、
「これは上辺だけで言っていることで、本心とは違うのだ」
ということを口にしていると、
人間は少しずつ自分の言葉に染まり、
自分が語る言葉通りの人間になっていく。

そんな気がする。

特に、自分はその点非常にナイーブで、
自分の心から発した言葉以外は、語りたくない。

だから、もし、「見せるため」の言葉を語るなら、自分の中の何かが損なわれる。

そう考えているのだろうか。

違うのかもしれない。

とにかく、むしろ自分はこうして人に見られる場所に文章を出すとしても、
ある面では「徹底して独りよがりに書きたい」と思っているし、
たぶん、それが唯一の方法なのだろうと思う。

表現することによって出会うこと

しかし、一方で、当然、読まれたいという気持ちもある。

昔のことを考えていて、よく思い返すのは、
ある時ふと思いついて、簡単にDTMで作った音源をネットに上げて、バンドメンバーを募ったときのことだ。

この時に出会った人たちは、自分にとって非常に印象的だった。

なぜかというと、そのサイトには自分について、それほど詳細な情報を載せていたわけではないのに、
音源を聴いて集まってくれた人たちは、びっくりするほど「話の通じる」人たちだったからだ。

もちろん、似た音楽や文化に触れてきたから、嗜好が似ている、というのは当然あるだろうが、
しかし、例えばあるバンドのファンであるとか、そうした共通項で仮に集まったとしても、
ああした出会い方はできなかったと思う。

今思えば、あの方向性に沿ってもっと進むべきだったのかもしれない、と思う。

つまり、何かを表現することで、似たような何かを持った誰かに出会えるかもしれない。

そして、それが自分の感性や思考の世界を、より押し広げてくれるかもしれない。

そんな期待を持っている。

それが、表現することの大きな動機の一つにも、なり得ると思う。

表現すること=世界を作り変えること

もう一つ、頭をよぎる考えがある。

表現することは、今ある世界を、何か異なるものへと作り変えよう、という欲求なのではないか、ということだ。

表現という言葉には、どこか、
「内にあるものを外に出す」
という印象がある。

このように考えるとき、表現する人の内面は静的なものとしてあって、
それをただ表に出す、という発想になる。

しかし、実際はそうではないのかもしれない。

表現するとき、人は、自分自身の表現によって、自分の思考を変化させる。

また表現が他の人にもたらした感興によっても、自分の思考を変化させる。

そして、そうした思考の変化は、世界に対する捉え方の変化を自ずと含んでいる。

つまり、昨日と今日とで、同じ存在ではありたくない、
常に新しい存在として、自分を作り変えたい。

そのように考えるとき、人は自然に表現することを選ぶのではないか。

そうした表現者に、自分はなりたいと思う。


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