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小説とエッセイを書くことの違い

はじめに

ここ数日、noteを更新している。
自分は今まであまり、思考を言語化するエッセイみたいなものを書いた経験がなかった。一定数の記事を書いている中で、「小説・詩を書くときと、エッセイを書くときで、頭の使い方は全然ちがうな」と感じるようになった。それがどんな違いなのか、また、小説などの表現をやる上で、あえてエッセイなども併せて書く利点がどこにあるのか、などを、今回の記事で書いてみようと思う。

エッセイの文章の特徴

エッセイの文章は、いわば、考えていることそのもの、という感じだ。
内容的にも、普段自分が人に話していることと変わらない。より本格的なものを書こうとする人は、いろいろリサーチをしたりするのかもしれないが、でも、こうした言葉としての特徴は同じだ、と思う。

エッセイの文章では、基本的に、思考や感情、あるいはノウハウなどの、ある程度「定義可能」な情報の伝達を目的とする。

目次を立てて、構成を作る必要もあるし、詩のようにいきなりイメージが跳躍したら、それは変だ。一つの記事のなかでは、一貫したメッセージが必要になる。

こうした情報的な文章の特徴は、それを「口頭のコミュニケーションでも再現できる」ということだろう。

例えばその日読んだエッセイの内容を、簡単に要約して人に説明することは、十分できる。そういう意味では、エッセイ的文章とは、かなり情報に立脚している、ということができるだろう。

小説・詩の文章の特徴

一方、小説・詩の文章となると、その特徴は大きく変わってくる。
そもそも、こうした作品には、要約ということがほとんど意味をなさない。
一定のストーリーラインや構成をとり出すことはできるが、それはあくまでも作品を論じているだけであり、作品そのものを伝達していることにはならない。

また、一つの差異として、小説・詩における文章は、
・感覚描写
・会話描写
・物体の描写

などを、エッセイよりも多く含む傾向がある。

こうした表現は、例えば、日常の会話ではそれほど詳細に用いられることはない。簡単な情景描写がなされることはあるが、それは多くの場合、話に含まれる情報をより効果的に伝えるための舞台、を提供するものだ。

また、この記事で少し触れたように、小説の文章はそれ自体が、(隠れた)空間・時間などの表現を、ねじれた複雑なかたちで含み込んでいる。

こうした表現は、情報を伝えるようでいて、実際にその文が表象しているのは、その文が意味する情報ではない。そうではなく、もっと異なることが問題となっている。
だから、表現された内容について、「この作品は〇〇について語っている」という、定義可能な情報をとり出すことに、あまり意味がない。

この点については、話はじめると長くなってしまいそうなのと、自分の現在の言語化が追いついていないので、また別の機会に論じたい。

表現を追求する上で、エッセイ(思考の言語化)が担うこと

こうした分類は図式的であって、細かく検討すれば、いろいろ問題点が出てくるだろうと思う。
一方、実際、自分が物を書く、という点では、この分類をはっきり立てておくことが、かなり有益だ。
元々、自分はかなり感覚的なところの強い人間であり、体感的に「わかって」いれば、論理をスッ飛ばしてもいい、という考え方の傾向が根本にある。

が、本来は、表現・創作活動において、その理論的・哲学的な背景を、可能な限り言語化しておくことは、不可欠ではないにしろ、大きな価値があることだと思う。

小説・詩は、言語による表現である分、その他の文章による表現との境界線が曖昧になりやすい。実際、自分が書いていて思うのは、前者と後者は、美術家がつくる作品と、その作品について美術家が語ることくらいの、大きな差がある、ということだ。

しかし、だからと言って、後者の言語化のアプローチの価値が低くなるわけではない。むしろ伝達可能で、一定レベルで体系立った言葉によって、自分の表現の知的なバックグラウンドを整理しておくことは、長い目で見たとき、大きな効力を発揮してくるだろうと思える。

エッセイを通じて、自分の表現活動の、知的な足場をつくる、ということを目標にできないか、と考えはじめた。

おわりに

こうして書いてみると、自分の思考の浅さ、至らなさに驚く。
とりあえず何か書いて出す、ということを目標にしているから、これもアウトプットする。
このような歯痒さを感じられるのも、思考を言語化して書くことの良さだと言えると思う。


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