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マスコミと不登校・ひきこもり業界の癒着と欺瞞。

 1970年代の相談の場や電話相談は、大概どこも「いじめられる側が悪い」という考えの持ち主がやっていたから、学校でいじめに遭った人がそういうところに相談しても、大抵は絶望させられ、打ちのめされるだけでしかなかった。
 で、そのような虚しい現実の中、わたしは相談の際に“発言”を始めざるを得なかったことは、手記にも書いた通りだ。(拙著『変光星 ある自閉症者の少女期の回想』@遠見書房版pp.192-197)

 もちろん学生なので受験勉強をしなければならないから、発言活動だけに取り組むということはできなかったが、それでもSOSを兼ねて、当時から、新聞社やテレビ局など、いろいろなマスコミに投書した。
 当時はネットやPCはおろかワープロもない。全て原稿用紙に手書きである。だが、そうやって頑張って書いて投稿した原稿は返してもらえることもなく、全て闇の中に消えた。

 わたしの高校受験の結果は、いじめのためにメンタルがズタズタだったため、散々だった。
 同じクラスの人たちも次々に高校に受かったのだが、
「各自の進学先の結果が出ると同時に、あれほど激しかった「いじめ」も、ぴたっと止んだ」。(同p.302)

 今日でこそ、いじめの原因は多様化しているが、少なくとも受験戦争さなかの当時1970年代という時代にあっては、受験が大きなウェイトを占めているように思えた。
 それでわたしの投書にも、いじめの体験に加え、そういうことをメインに書いた。

 高校に入ってからもいじめのために相変わらずメンタルがズタズタだった私は、今でいう不登校になり、全日制の高校から通信制に転校した。
 その転校は1980年当時としては、その学校にとっては前代未聞で、わたしの知る限りではおそらく日本初のことで、前例のないことだった。
(ここら辺のことについては拙著『平行線 ある自閉症者の青年期の回想』に詳しく書いた。)
 もちろん、それらの経験についても投書に書いた。だがマスコミからの反応は、一切、なかった、

 そんな中、元中学の少し親しくしていた人から、便りがあった。
「ムオリ君は国立K大学に、アカガイ君は私立J大に行ったということで……」(同遠見書房版p.141)
 つまり、当時のいじめの首謀たちは、受験エリートとして、最高学府に進学していることを知った。

 それで私の投書も、いじめ問題に加え、受験というシステムに関するものとなった。
 また、いじめ加害者がこの国のエリートになりこの国を牽引するようになれば、この国は亡ぶのではないかということも書いた。
 そしてその投書の中に、必ず「K大」「J大」という固有名詞を加えた。

 だが、それから更に数年後の1985年ぐらいから、マスコミからこういう報道が頻繁になされるようになった。
「登校拒否の人がK大に進学した」
 やがて、どのテレビ局も、新聞社も、一時期そういう報道で一色になった。
 さらには、そうした情報を入れ込んだ不登校のドラマも作成された。

 つまり、わたしが今までやってきた投稿活動は、今までマスコミに一切伝わっていなかった。
 というか、もしかしたら伝わっていたのかもしれないけれども、しかし、わたしが投書してきた内容や意図とはまるで真逆なことを、マスコミは一斉に“宣伝”し始めた。

 ちなみに、例のいじめの首謀と、そのK大進学者は、在学期間が重複する時期がある。
 つまり一時期、2人とも学年は違えど同じ大学にいたということだ。※1
 もしかしたらわたしの関係妄想かもしれない。がしかし、それにしては、あまりにも出来過ぎた話ではないだろうか?

 で、そのK大進学者の親が始めた親の会ならびにフリースクールは、そうしたマスコミの大合唱もあり、みるみる知名度が拡大して今日に至り、今では、その流れを汲んだ人たちが、オルタネイティブ教育や引きこもりの運動を主導していたりする。
 そうやって、つい最近に至るまで、不登校の話題となると、決まって出てくるのが、彼らのフリースクールとその関係者だった。
 そして今日では彼らは、立法にも関与し、国政や行政を変える力すら持ってしまった。

 そのようにして彼らは、彼ら以前から声を上げていた声なき人、例えば登校拒否の投薬治療で被害に遭い後遺症になった人たちといった切実な声を、
「どうして治療を受けたのですか」
と上から目線でジャッジするような言い方をし、
「明るい登校拒否があってもいいのではないか」
という言い方で、見事にデリートしてしまった。

 2023年の今では、ある事件の発覚(彼らは20年間もその事件を隠蔽した)を切っ掛けに、そのフリースクールが表に出てくることはなくなったが、その代わり、彼らから派生した団体の代表の、そのフリースクール出身者が、今や不登校の専門家としてメディアやポータルサイトに頻繁に登場する有様だ。

 そのような訳で、マスコミは、例えば不登校の問題にしても、ひきこもりの問題にしても、一部また特定の人たちだけの声を針小棒大に取り上げ、それ以外の声を徹底無視し、抹殺してきた。
 わたしは1975年から2020年にかけて当事者の立場からずっと声を上げてきたが、少なくとも登校拒否/不登校/ひきこもりの文脈では、一度もマスコミから取材の話などはなかった※2。

 また、拙著でも不登校・ひきこもり体験はかなり詳しく書いているにも関わず、少なくとも不登校・ひきこもり支援関係者からの声かけは一切なく、彼らの言説のなかで拙著が取り上げられたり言及されたりすることは、少なくともわたしの知る限りでは一切なかった。
 これは、障害を持った人の不登校が不登校支援者からすら差別・忌避されていたことの証左だと思う。

 という訳で、マスコミに対して声を上げることは、ともすると逆効果になりますよ、ということ。
 彼らマスコミは公正ではない。
 要するにマスコミは特定の人たち、一部の人たちと癒着し、その人たちの意見だけをことさら増幅し、それを何回も何回も執拗に宣伝するわけだが、こういうのはもはや報道機関ではなく、プロパガンダ機関のすることだ。
 ちなみにネットスラングでは「マスゴミ」という言い方に加え、最近では、「ダマスゴミ」という言われ方も散見する。

 実際、国益のため、日本のために動く政治家がマスコミの執拗な個人攻撃によって、いったい何人が潰されてきただろうか。
 そういうことを考えるなら、マスコミはもはや民主主義の敵、国家の敵、日本の敵である。◆
(2023.11.25)

※1 わたしの周りにもK大関係者はいるが、本稿がその人やK大を批判する意図のものではないことはお断りしておく。
※2 自閉症・発達障害の文脈なら接点はあるが、投書も取り上げてもらえたこともあるし、良心的な人もいた一方で、かなり酷い取材スタッフがいたのも事実である。わたしの受けた取材被害については拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険』pp.167-170や、この記事(第5段落)で少しだけ触れたが、穏便に書いたせいか、今一つ深刻さが世の中に伝わらなかったのが残念である。

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