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「半身浴」で退屈はしのげるのか ~なぜ働いていると本が読めなくなるのか感想~

SNSを中心に話題騒然の本書、ようやく読みました。
三宅香帆著、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」です。

非常に面白く、示唆深く、なにより本への愛に溢れた一冊でした。
そもそも読書というのが労働と深く結びついている、という観点自体が自分にとって新鮮で、しかし分析を進めていくと、まさに三宅先生の言う通りと膝を打つばかりでありました。

今回はこの素晴らしい本の感想を書いていきます。
その感想とは

半身浴をすれば本は読めるようになるのか

です。
あ、半身浴は風呂に入りながら読め、ということではないことを断っておきます。



読書はノイズである

ネタバレをしてしまえば、本書の論旨は「読書とはノイズ」であり「現代はノイズを許容できない」から本を読めない、ということである。
ここに至るには、なぜ日本人が本を読んできたのかということと近現代労働史が必要になるのですが、それは本書を読んでください。

作者は本が読めない理由を社会に求めます。
つまり、新自由主義による自己責任的な社会風潮、そして全身で働いて自己実現することが尊ばれる現代社会に問題がある、と言います。

人々の働き方が変化するなかで、自己啓発書が象徴するように、自分の意図していない知識を頭に入れる余裕のない人たちが増えていった。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆著 P240

確かに、その指摘は的を射ていると思いました。
しかし、自分は読みながら、「果たしてそうだろうか」という疑問も持っていたのです。
三宅さんの指摘を否定したいわけではなく、私はここに、さらにもう一つの側面を、その可能性の提示をしてみたいと思います。

「全身」という問題点

最大の論点は、この「全身」という言葉です。
これは全力とか、全身全霊といった意味で使われています。
この全身という概念自体は、そもそも現代的なものではない、あるいは過去に既に存在していたが現代になって再認知されたものなのです。
つまり、その時代時代に支配的な価値観に浸っていることこそが「全身」的であると言えます。
というよりも、近代以前はこの価値観に浸る以外の選択肢がないのです。価値観の選択ができるようになるには近代の人権思想の出現を待つしかありませんが、それ以降もその時代、空気に支配的な価値観に染まることは行われてきましたし、本書はまさに、「労働の支配的価値観」を俯瞰する書物と言えるでしょう。

問題となったのはバブル前後の新自由主義の出現です。
ここで重要なのは「市場経済の最優先」という旧来の自由主義とは異なる「自己責任」の思想が根底として強い、ということです。
「ガンガン経済良くして、みんなで良くなろうぜ!」ではなく「市場は好き勝手動くから、手前で頑張れ」という思想です。
これは要するに「自分で頑張れ、考えろ」という突き放された価値観なのです。
他人に対してはそれでいいでしょうが、自己に向いたとき、この価値観は私たちから考えの根底となる「価値観」を失わせています。自己回帰しながら、その価値観は私たちに絶対的な方針を示さないのです。市場を良くしよう、とは言いますが、どう良くするかは語らないのです。
だから市場に我々が合わせるしかない、内面を掘り下げるしかなかったと語ります(第7章)。
また、現代に入りダイバーシティ、ジェンダーといった固定観念が次々に破壊されており、従来通りの「男らしく」「女らしく」も通用しません。
現代では価値観はある種のアイデンティティクライシスを起こしています。

ここで言いたいことは、人類史を見ても著者の主張する「半身」的な生き方をしている時代はほとんどなかった、ということです。
これまでは「生きること=仕事」だったが、現代では「生きることの中に仕事」がある状態になったのです。
ならいいじゃないか。先も述べたように全身的な価値観がなくなってきているのだから、ぜひ人類は半身的な価値観に身を浸そうじゃないか。

ですが、すでにこの点において問題を指摘している方がいらっしゃいます。
それが國分巧一朗先生です。

「全身」とは退屈である

さて、ここに國分巧一朗先生の著書、「暇と退屈の倫理学」を引いていこうと思います。

國分先生は人の人生において、「退屈を紛らわすこと」こそが重要な意味を持つ、と述べています。

人間の生とは退屈の第二形式(なんとなく退屈と付き合うこと)を生きることではないか。

暇と退屈の倫理学 國分巧一朗著 P354 
()内はもるげん注

人間は「なんとなく退屈だなあ」という退屈をどうしても感じる。それを折衷のように誤魔化しているのが第二形式の退屈です。
この辺りはぜひ本書をお読みになっていただきたいのですが、問題は全身というものがどう関わるか、です。
ここに、退屈の第三形式について、決断という言葉とともにこう説明されています。

あらゆる配慮と注意を自らに免除し、ただひたすら決断した方向に進めばいい。しかも、もはや「なんとなく退屈」の声も聞こえない。(中略)従うことは心地よいのだ。

暇と退屈の倫理学 國分巧一朗著 P346

おや、ここにある言葉はどこかで聞いたことがあります。

「全身」でひとつの文脈にコミットメントすることは、自分を忘れて、自我を消失さえて、没頭することである。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか 三宅香帆著 P262

そう、本書の中に語られる「全身」とはまさに、「暇と退屈の倫理学」内で述べられている退屈の第三形式と同じ構造をとっているのです。
すなわち、退屈という文脈から自らを切り離すため、「全身」で働くことを決断しているのです。
この決断は盲目的であり、しかし、退屈から目を背けるには非常に強い魅力を備えています。
つまり、人間は容易に「全身」に落ちやすいのです。

労働は退屈の歴史

人間が「全身」に落ちやすいということは、逆説的に労働史はその時々の「退屈の第三形式」を反映している可能性があります。
例えば、戦前の帝国主義的な時代は国粋的な仕事が尊ばれ、戦後はライジングする経済に熱狂し、バブル前後では確立した会社という文化に染まっていく。
労働に求められるものと退屈とは切っても切り離せないでしょう。事実、暇と退屈の倫理学においても、労働ではありませんが消費と退屈の関係性の指摘がありました(同書第3章)。
我々人類は、退屈を忘れさせるために労働があり、忘却のための決断の価値観が培われてきたのです。
しかし、新自由主義的な現代ではそれらが破壊され、我々の中に求められています。
故に、退屈を忘れるための理屈は、過去から引っ張ってくるか(回顧主義)、SNSの中で醸成される「ふつう」的なものに見出すか(他者への同一化)、あるいは自己啓発的に自分の中へ入っていくしかなくなってしまった(自己実現)のです。

なぜ、読書に「全身」できないのか

そんな、退屈が押し寄せる現代であるなら、なぜ人間は現代において読書に「全身」できないのでしょうか。
この問いの答えは本書の中にあり、一つは前述の新自由主義価値観です。
現代労働者は一人一人が市場経済にコミットメントしなければならず、その先の保証はありません。となればタイパ、と呼ばれる言葉に代表されるような、近眼的な価値観が重要視されます。一方でノイズはバタフライエフェクト的側面があり、いつ有用になるかわからないため、有用とは判断されなくなっていきます。これは翻って、先々の不安であり、「今すぐ役に立たなくてはならない」という感覚の裏返しかもしれません。

この指摘こそは三宅先生のおっしゃる通りです。
しかし、先も述べたように人間が全身的なるものを求めるならば、ただ半身になることは難しいのではないのでしょうか。
半身になれる社会を求めても、次の全身的な労働価値観が出てこないとも限りません。

仮に、半身的な社会が訪れたとしましょう。
本当に我々は本を読むようになるのでしょうか。
この退屈の中、何かに全身するものがない社会の中で、果たして我々は半身的に本を読むことはできるのでしょうか
自由主義という社会が我々を規定するように、我々が元来持つ「退屈」が我々を規定する、価値観への熱狂の視点を理解しない限り、もしかしたら難しいのかもしれません。

我々は「本を読めない」ままなのか

國分先生が退屈のパンドラを開いたように、三宅先生も読書史のパンドラを開き、その底には希望はあります。
私が思う希望とは、多様性(diversity)メタ認知です。
昨今、社会ではこの二つの単語が非常に叫ばれるようになりました。
多様性は他者の存在を理解することであり、メタ認知は他者の関係を理解することです。どちらもノイズなくしては理解できず、ノイズから自分を相対化することで理解できます。
そのため、ノイズの需要はこれからさらに大きくなっていく、と予想しています。一方でCOTENという組織もあるように、おそらくノイズの摂取方法は変わっていくことも間違いありません。

そしてもう一つ、本は退屈に打ち勝てないのか。
本にはそもそも退屈に打ち勝つ力があります。古来から、退屈なときに本を読むことはごまんとあったわけですし、何なら退屈を誤魔化すために本を読み、書いているのです。
現代は新自由主義、そして情報化社会の中でその力が弱まってしまいました。あるいは、様々なメディアがあり、相対化されているともいえます。
それでもなお、本書が売れるのは、「読みたい!」という退屈を誤魔化したくてやまない人が、たくさんいるからです。本にはいまなお、その力は残されていると思います。

最後に、本書を読み終えて私はあえて、全身で本を読もう、と言います。
なぜならば、全身で浴しなければ、どこまでが自分の半身かわからないものです。だから、一度しっかり全身で本を読んで、自分の半身がどれくらいかを知るといいでしょう。
ちなみに、自分も半身で読んでいるのですが、読みかけがたぶん10冊くらいあってぎょっとした。足湯どころではない。つま先浴です。
そうやっていますが、けれど、たまには全身で読みたくなるのです。
毎日お風呂に入るけど、たまに入る温泉は心地いいものであります。
そして、それは仕事だってそうです。

多様な価値観が広がる。それは多様な「全身」と「半身」が広がることです。
そういう浴し方自体が一つの価値観となり、退屈を紛らわせたり、忘れさせたり、そうなっていくことを私は望みます。

最後に、一人の本を愛する者として、本書を書き上げた三宅女史に心からの声援を送りつつ、その文体からにじみ出る愛に敬意を捧げます。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
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