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「清浄道論」のサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想

「仏教の瞑想法と修行体系」に書いた文章を編集して転載します。


清浄道論


「清浄道論」は、南インド出身の仏音(ブッダゴーサ)がスリランカで大寺派の立場から5Cに書いたもので、それ以降、上座部最大の聖典となっています。

「清浄道論」は、それ以前の様々な経・論を参考にながら、独自の思想・修行体系を打ち立てました。

何をどの経・論から継承したかという、具体的な関係は下記の通りです。

・全体の章立て、修行階梯:「解脱道論」
・七清浄:パーリ中部「伝車経」
・縁起説、四諦一時顕現説:「無礙解道」
・三種の完全知:「義釈」
・縁起成仏説:長部・相応部
・四諦三転十二行相:「転法輪経」
・四禅の定義、四諦・十二縁起の説明:「分別論」

従来の上座部の経蔵には、「無礙解道」や「義釈」は入っていなかったため、ブッダゴーサが「小部」として組み入れて、「三蔵」を再編しました。

もちろん、「無礙解道」や「義釈」は直接的には仏説ではありませんし、論や註釈の形式の文献です。

「清浄道論」の全体の構成は、「戒→定→慧」の3学を基本とし、階梯の詳細は「七清浄」としてまとめられました。

「戒」の段階が「戒清浄」、「止(サマタ)」を行う「定」の段階が「心清浄」、有漏・凡夫の「観(ヴィパッサナー)」の段階が「見清浄」「度疑清浄」「道非道智見清浄」「行道智見清浄」の4つ、聖者の段階が「智見清浄」です。

従来の修行における瞑想では、「四諦」を対象とすることが核心でした。

しかし、『清浄道論』では、無常な諸行の共相である「苦・無常・無我」を対象とします。

「四諦」の認識は、その結果として、それぞれの一瞬に生じる(四諦一時顕現説)と考えます。

古来の考えでは、釈迦は「四諦」を認識して成仏しましたが、部派時代に、仏塔信仰の拡大とともに、「縁起」を認識して成仏したという考えに変わっていきました。

ブッダゴーサも、この考えを採用し、それをもとに修行体系を作成しました。

各部派の伝統的な修行体系は、「四諦」を観察の中心的な対象として構成されています。

ブッダゴーサは、これを「縁起」と関わる、無常な諸行の三相の観察へと変えました。

「観」における観察対象というきわめて根本的なものを、伝統から変更したのです。

ちなみに、大乗仏教は、説一切有部系の「倶舎論」の修行体系を元にして、基本的な「観」の対象を「四諦」とすることを受け継いでいますので、大乗の方がより伝統的なのです。

「縁起」や「滅諦」が永遠なる無為法か無常なる有為法かについては、部派ごとに異論がありました。

ブッダゴ-サは、「縁起」は有為法、「滅諦」は無為法と考え、前者を「観」の対象とし、後者を対象から外したのです。

つまり、「四諦」の「滅諦」は、無常な存在ではないので、対象とはしないことにしたのです。

*ただし、聖者の段階では、無為法である「涅槃」を対象とした認識(道智など)をします。

このような形で、合理的に修行階梯を体系化したことが『清浄道論』の最大の特徴です。

上座部の教説は釈迦のものだ、と主張する人たちは、ブッダゴーサの行った思想的創造を否定することになります。


サマタ(止)


「止」の瞑想修行は3段階(三修習)からなります。

・遍作修習(遍作定)→近行修習(近行定)→安止修習(安止定)

「遍作修習」は初歩的な段階で、「止」の対象を「遍作相」→「取相」→「似相」と順に深めていきます。

「遍作相」は感覚が捉える現実の対象、「取相」は外的感覚なしに心の捉える対象、「似相」は明瞭さが増した純粋な対象です。

「近行修習」は、「止」の対象が「似相」になりますが、まだ、「欲界心」の段階です。

つまり、まだ対象と一体化していない段階です。

この段階では、「五根」(確信・精進・気づき・定・慧)と「七覚支」(気づき・分析・精進・喜・軽安・定・捨)をバランスよく育成することが求められます。

そして「五蓋」(欲愛・怒り・睡眠・後悔・疑)を失くして心を浄化します。

「止」の段階が「心清浄」と名づけられているのはこの意味です。

「安止修習」は「根本定(安止定)」、「色界定」に到達した段階です。

つまり、対象への一点集中が固定できるようになった段階です。

「禅支」と呼ばれる特徴が強固になり、対象に集中した状態を持続できるようになります。

「安止修習」では「四禅(四色界処)」を順に修めて行きます。

それぞれの段階で存在する要素の「禅支」は下記の通りです。

・初禅 :尋・伺・喜・楽・一境性 
・第二禅:伺・喜・楽・一境性
・第三禅:喜・楽・一境性
・第四禅:楽・一境性
・第五禅:捨・一境性

また、それぞれの段階で、下記ように「五自在」を修めます。

・引転自在:出定後に禅支を確認できる
・入定自在:いつでも入定できる
・在定自在:好きなだけ定に留まれる
・出定自在:予定通りの時間で出定できる
・観察自在:禅支を確認できる

「清浄道論」では「止」の対象である「業処」を「四十業処」として40にまとめました。

・十遍:地・水・火・風・青・黄・赤・白・光明・虚空
・十不浄:膨張した・青くなった・膿血した・二分された・食い荒らされた・五体がちぎれた切り刻まれた・血の出た・虫がたかった・骸骨の…以上の状態の死体
・十随念:仏・法・僧・戒・捨・天・死・身至・安般(呼吸)・寂止(涅槃)
・四梵住(四無量):慈・悲・喜・捨
・四無色:空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処
・食厭想
・界差別:身体の四大元素

すべての対象で「止」の瞑想をしなければいけないのではなく、修行者の性質に応じて選択して行います。

具体的には下記です。

・貪行者:十不浄観・身至念
・瞋行者:四梵住・四色遍
・癡行者・尋行者:安般念(出入息念)
・信行者:最初の六随念
・覚行者:死随念・寂止随念・界差別・食厭想
・一切人:六遍・四無色定

また、修行者を守る効用から、必ず修業が必要な「四護衛禅」として、

・「慈心観」
・「仏随念」
・「不浄観」
・「死随念」

が挙げられます。

「止」の修行の成果として、5種の神通(「沙門果経」の六神通の「漏尽通」以外)を獲得できるとします。


ヴィパッサナー(観)


最初に「清浄道論」の「観」の瞑想階梯の全体像を説明します。

「清浄道論」の7清浄の体系の中で、「観」に対応する段階は、

・見清浄→度疑清浄→道非道智見清浄→行道智見清浄→智見清浄

の5清浄です。

最初の4つの清浄は有漏の世間智、最後の「智見清浄」は、四沙門の段階の無漏の出世間智です。

最初の「見清浄」は、名色(精神と物質)を知り、心身に私としての実体はなく、ただ無常である様々な名と色があるのみである理解する段階です。

より細かくは、名の認識と、色の認識の2段階からなります。

これは「苦諦」の理解に相当します。

次の「度疑清浄」は、名色の因縁を知って、輪廻など三世に関する疑惑をなくす段階です。

これは「集諦」の理解に相当します。

3つ目の「道非道智見清浄」は、正しい修行道と非道を区別する段階です。

北伝や大乗仏教の加行道段階に当たると思います。

より細かくは、「聚思惟」と「生滅随観智」などからなります。

これは「道諦」の理解に相当します。

4つ目の「行道智見清浄」は、正しい修行の過程を知る段階です。

より細かくは、「八智」と呼ばれる8つの智と、総まとめ的な「随順智」からなります。

これも「道諦」の理解に相当するのかもしれません。 

最後の「智見清浄」への移行段階として「種姓智」があります。

「智見清浄」は、煩悩を離れて四諦を直接知る段階です。

北伝や大乗仏教の見道段階以降に当たると思います。

より細かくは、「四道智」からなります。

これは、「滅諦」の理解に相当するでしょう。

また、5清浄の段階は、大きく「三遍知」という観点からも捉えられます。

「三遍知」は、

・知遍知→度遍知→断遍知

の3段階からなります。

「知遍知」は、名色の各個別相を認識する知です。

実体(法)としての個々の名と色を分別し、その因果関係を認識します。

「見清浄」と「度疑清浄」がこれに当たります。

次の「度遍知」は、個々の名色の共通相(苦・無常・無我)を認識する知です。

「道非道智見清浄」と、「行道智見清浄」の最初(生滅随観智)がこれに当たります。

最後の「断遍知」は、名色が常なるもの、楽なもの、我であるという認識の間違いをなくし、執着を絶つ知です。

「行道智見清浄」の最初(生滅随観智)以外は、「断遍知」でもありますが、同時にまだ、2つ目の「度遍知」の側面も持っています。

5清浄目の「智見清浄」は純粋に「断遍知」です。



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