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仏教各派のヴィパッサナー瞑想(観・気づき瞑想)

「仏教の瞑想法と修行体系」に書いた文章を転載します。



観(ヴィパッサナー)とは


「観」は何らかの現実の対象を観察・分析し、智慧を得る瞑想法です。

パーリ語で「ヴィパッサナー」、サンスクリット語で「ヴィパッシュヤナー」、チベット語で「ラクトン」、漢訳が「観」、音訳が「毘婆舎那」、英語で「インサイト・メディテーション」などです。
「随観(アヌパッサナー)」もほぼ同意語です。

「観」によって智を得ることで、知的な煩悩をなくし、次に、情的な煩悩をなくしていきます。

「観」では、概念的な(尋伺による)分析を行う場合と、概念やイメージ、そして、「私」という観念なしで、対象をありのままに観察する場合があります。

「観」の瞑想の対象の取り方には、3通りの方法があると思います。

1)観察する対象を決めて、それに集中して観察する

2)集中する中心対象(メディテーション・アンカー)を決めて、それに集中しながらも、観察するテーマが生じればそれを観察する

3)集中する中心対象も観察するテーマの対象も定めずに、その都度、意識に昇ったものを観察する

1)は、例えば、呼吸に集中してそれを観察し、他のものに気が散ったらすぐにそれを手放し、また呼吸に集中を戻す方法です。

2)は、例えば、呼吸に集中しながら、感情が生じたらそれを観察し、それ以外のものに気が散ったらすぐにそれを手放し、また呼吸に集中を戻す方法です。

3)は、何であれ、意識に上ったものを次々と観察していく方法です。

上座部(南伝のスリランカ大寺派系の流れ)では、「止」は観念的対象の場合にのみ使用する言葉なので、現実的な対象を取る「観」を行っている時の集中力は「瞬間定」と呼ばれます。

しかし、最低「近行定」、最高では「第四禅」の「止」を達成してから「観」を行うので、「瞬間定」でもその集中力が必要ということになります。

一方、北伝アビダルマ(説一切有部、経量部、大乗仏教など)では、「止」と「観」の対象は区別されないので、「止」を行いつつ、そこに「観」の分析・観察を付け加える形になります。

「観」には「近行定」から「第四禅」の集中力が必要なことは、南伝と同じです。

「近行定」では「止」が優位、色界の四禅では「止観平等」とされます。

観察に際しては、教理に基づいて行うのが伝統的な方法ですが、近年では、それをほとんど意識しない方法もあります。

北伝仏教でも南伝仏教でも、教理に基づいて行う場合は、順に、対象とその属性を選んで観察していきます。

「観」は、対象をどう観察するかという点で、各派の哲学的な見解が反映されます。

また、釈迦が何を悟ることで涅槃に到達したのか、という涅槃解釈と関係します。

後者に関しては、「原始仏典」では主に2つの説があります。

初期には「四諦」とするものが多く、後には「縁起」とされることが多くなりました。

ですから、初期の「観」の瞑想では、「四諦」を瞑想することが重視されました。

つまり、「四諦」を対象にした「観」によって解脱する、という修行観が定着しました。


上座部


しかし、上座部仏教では、5Cにスリランカ大寺派のブッダゴーサよる改革が行われ、「観」の対象を諸行(永遠ではないこの世の存在、具体的にには「名」と「色」)の「無常」、「苦」、「無我」とし、結果として「四諦」を内容とする認識が生まれるとしました。

この改革のキーポイントは、「観」の対象は無常なものだけであって、「涅槃」のような永遠なものは対象ではないという点です。

(「四諦」の中の「滅諦」は「涅槃」に関わるものだから、「四諦」は対象にしないのですが、ただし、聖者に至る最終段階では「涅槃」も対象となります。 )

上座部では、まず、実在する存在である「法(諸行)」の個相を、一つ一つ識別します。

次に、その因果関係を認識します。

そして、「法」が「無常」、「苦」、「無我」であることを認識します。
これを「三相」とか「共相」とも呼びます。

「共相」というのは、すべての「法(諸行)」に共通する性質という意味です。

上座部のアビダルマ哲学では、物質は17刹那の間だけしか存在しないと考えます。

1刹那で「生」じ、15刹那「住」し、1刹那で「滅」します。

通常の意識では1刹那の「滅」は認識できないのですが、「観」ではその「滅」を観察しなければなりません。

(1刹那の「生」は意識の上る前に終わってしまうので、認識できません。)

そして、それらへの執着をなくしてきます。

この諸行の「三相」を対象とする「観」が自然に「涅槃」を対象とする特別な「観」になって聖者に至ります。

現代の上座部の改革派であるマハーシ・システムでは、まず、呼吸によるお腹の動きや、歩行動作を中心対象にします。

そして、その対象以外のものが意識に上ってくると、それに気づいて、手放します。

対象に気づいた時は、言葉に表して(ラベリング)意識します。

アビダンマ哲学に沿った細かい「法」の識別などの観察は行いません。

また、ゴエンカ・システムでは、感覚を対象にして観察することに徹します。

そして、身体感覚を順に観察することを行います。


北伝仏教


一方、部派仏教で最大の勢力を誇った説一切有部は、上座部と違って、四念処で「四諦」を十六行相から観察します。

大乗仏教も、説一切有部の伝統を継承していますが、「観」の解釈の指針が、中観派や唯識派の思想になります。

最大の違いは、「空性」あるいは「唯識性」を主要なテーマとし、その認識を重視することです。

つまり、「主・客の空(人法二無我)」や「概念の空」を対象します。

部派仏教との違いは、諸行の無常だけではなく、「法無我」、つまり、事物を事物たらしめる本質の実在性(自性も待つ「法」たる所以)が存在しないことを認識することです。

従って、「四諦」の観察も、それを実体視せず、「空」であると認識します。

上座部のアビダルマでは物質が15刹那「住」しますが、これは「本質」を保った存在が存続するということです。

大乗の「空」の思想、「法無我」の思想は、そのような「本質」を認めず、従って、「生」も「住」も「滅」もないと考えます。

つまり、「共相」としては「空性」で、それは上座部の言う「生滅」ではなく「不生不滅」です。

また、主体や概念を対象とする点も、大乗の「観」の特徴です。

具体的には、個物や主体を対象にしながらそれが「空」であることを、尋伺をもって理論的に認識します(正理知)。

これによって、「止観一体」で、概念のない無分別な「観」に至ります。

この時の「止」は「第四禅」の三昧です。

これが聖者に至る段階です。

また、大乗仏教では、仏となるために「一切種智」や、空性を理解した概念的な智としての「後得智」も必要となります。


密教


密教では、通常の止観ではなく、「観想」と「気のコントロール」の中で「空性」を認識します。

密教では、自分自身を仏のイメージなどで観想します(本尊ヨガ・我生起)が、それを無想念の「空」の意識状態から生成し、またそこへ消滅させるとことを通して、想念の「空性」、一切の「空性」を考察し、修習します。

ここには「観」の要素があります。

この背景には、大乗仏教の「唯心」、「唯識」の心だけを観察すれば良いという考えがあり、その心であるイメージなどを、操作する形で考察し、認識するのです。

自分を仏として観想するということは、凡夫の段階から、仏として仏の見る世界を修行するということです。

目標を道とすることで、道を早く進もうという考え方です。

自分を仏として観想する瞑想法は「有相ヨガ」と分類され、無概念の「空」を得る瞑想は「無相ヨガ」と分類されます。

「空」を得た後には、仏としてイメージするする時にも、「空性」をもとにしたイメージとなり、これを「深明不二」と表現します。

さらに、気をコントロールして、全身の気を収束させたり、気の凝縮体を融解させることで、無想念の特殊な意識状態を生み出します。

この時、視覚的には「光明」として、また身体感覚的には「大楽」として「空」を体験することを重視します。

この時、概念の存在しない三昧の意識状態となるので、これを利用して、「空性」を認識するのです。

密教では、「空」を心や物質の創造的な母体であり、仏の「法身」であると考えます。

そして、「空」の状態から清浄な煩悩のない概念・イメージが、そして最終的には身体が生まれることを積極的に肯定し、その過程を観察します。

これは、利他(説法)を行うための想念や身体を重視することとつながっています。

想念のない状態の「空」から清浄な心身が生まれることを認識し、それを体験・実践することは、「智恵と方便の不二」とか「涅槃と輪廻の不二」と表現されます。

密教の「観」は、これを認識するものです。


ゾクチェン


ゾクチェン(のセムデ)の場合、「止観」を独自の解釈で行います。

「止」は、「寂静」とも表現され、虚空などに集中しますが、一点集中ということではなく、概念のない状態になること、「心の本性」を見出すことが本質です。

「観」は、「不動」とも表現され、虚空への集中をゆるめることで、概念(などの様々な顕現)が現れるようにします。

この顕現は、虚空から生まれ、虚空に消えるもので、実体のないものであると観察します。

つまり、顕現の空性を対象とします。

次の「止観一体」は、「一味」とも表現され、概念のある状態とない状態に違いがないことを理解することを本質とします。

どちらの状態でも、「心の本性」に対する気づきを維持して、概念もそこから現れる清浄なものであると認識します。

ですから、概念が生まれることを否定する必要はなく、生まれたその概念を、自性を持たないものとして、自由に解放するようにします。

これが、あるがまま(任運)を肯定するゾクチェンの方法です。



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