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仏教各派のサマタ瞑想(止)

「仏教の瞑想法と修行体系」に書いた文章を転載します。


サマタ瞑想とは


「止(サマタ)」は何らかの対象に一点集中する瞑想法です。

パーリ語で「サマタ」、サンスクリット語で「シャマタ」、チベット語で「シネー」、漢訳が「止」、音訳が「奢摩多他」、英語で「カーム・メディテーション」などです。

「随念(アヌサティ)」、「禅」や「定」もほぼ同意で、「等至(サマーパッティ)」、「三昧(サマディ)」も「止」の一種です。

集中を高める中で、徐々に感情や思考をなくして、散乱する心を静め、対象に固定した状態(三昧)になります。

「空」や「虚空」といった特別な対象に集中する場合や、対象を持たない「止」(無相定)もありますし、主体の側の心自体が存在しない「止」(滅尽定)もあります。

純粋に一つの観念やイメージの類を対象にすることもありますが、テーマに沿って順に思いを巡らすこともあります。

上座部(スリランカ大寺派の流れ)では、対象が継続する抽象的な観念の場合に、「止」と呼びます。

生滅する現実に集中する場合もありますが、それはきっかけであって、それを認識して観念的なものを重ねたり、置き換えます。

そのため、生滅する現実を対象にして「観」の瞑想を行う場合の集中については、一瞬の集中作用であるとして、「瞬間定」と呼びます。

しかし、他派では、対象を観念に限らずに、瞑想において一点集中するという側面を「止」と呼ぶため、同時に「観」を行うことができます。

「止」は単に集中力を養うだけではありません。

「死」や「死体」などを対象にすると、体や生、自我への執着・同一化をなくせます。

「慈悲」をテーマにすると、他者への慈悲を育てます。

「仏」、「法」、「僧」などを対象にすると、信仰心が養えます。

「体」を対象にする「身至念」や「四界差別」、「呼吸」を対象にする「出入息念」などには「観」の要素もあり、智恵につながります。


原始仏典と部派仏教


原始仏典では、「止」が属する「定学」には、

・感覚に左右されないようにする「護根」
・自分が行っていること思っていることに常に気をつける「正念正知」
・贅沢を望まない「知足」
・瞑想の障害をなくす「断五蓋」

が含まれます。

上座部では「止」の対象が「四十業処」として以下の40にまとめられました。

・「十遍(四大・虚空・四色・光明)」
・「十不浄(様々な死体)」
・「十随念(仏や死、安般念、身至念など)」
・「四無量=四梵住(慈・悲・喜・捨)」
・「一想(食厭想)」
・「一差別(四界差別)」
・「四無色」

「四十業処」のすべてを対象にした「止」が必要なわけではなく、修行者の性質に応じて選択して行います。

つまり、その人が強く持っている障害を取り除くための対象が選ばれました。

具体的には、下記の通りです。

・欲が強い人:「十不浄」、「身至念」
・怒りやすい人:「四梵住」、「四色遍」
・考え込む性格の人:「安般念」

一方、説一切有部では「止」の対象は主に「五停心観」と呼ばれる5種が重視されました。

こちらも修行者の性質に応じて行うものです。

・欲が強い人:「不浄観」
・怒りやすい人:「慈悲観」
・考え込む性格の人:「因縁観(十二縁起観)」
・自我の強い人:「界差別観」
・心の落ち着かない人:「数息観」

「止」の瞑想で対象に集中すると、外的な感覚のない安定した内的なイメージ(取相)のみを意識に保持できるようになります。

この段階を「近行定(近分定)」といいます。

さらに、集中を深めると、対象はさらに明瞭で強いものになり(視覚的対象の場合は光度が増し)、純粋なものとなりますが、これを「似相」と言います。

これのみを対象とした集中が続く状態が達成され段階が、十分な「止」が達成された状態で、「安止定(根本定)」と呼ばれます。

「安止定」は、原始仏典ではさらに4段階、上座部のアビダルマ(論書)では5段階に分類されます。

・「初禅」:「尋・伺(思考)」と「喜(精神的快感)」、「楽(身体的快感)」、「一境性(一点集中)」がある
・「第二禅」:「尋・伺(思考)」がなくなる
・「第三禅」:「喜」がなくなる
・「第四禅」:「楽」もなくなり、「捨(対象への平等な無関心の状態)」と「一境性(一点集中)」だけになる

思考を「尋(意識的な思考)」と「伺(無意識的な思考)」に分けると5段階になります。

「第二禅」以上は「三昧(サマディ)」と呼ばれます。

ただし、説一切有部など、部派によって、異なる見解があります。

「止」がどの段階で行われるかは、対象によります。

例えば上座部では、下記の通りです。

・「界差別観」:「近行定」
・「捨梵住」:「第四禅」
・「安般念」、「十遍処」:「初禅」から「第四禅」

対象が複雑で展開の必要な場合には低い段階で行われるのでしょう。

一般に初期仏教では、「止」を「第四禅」まで修めてから「観」に進みますが、最低「近行定」まで修めて心を浄化してからでなければ「観」に進めないとしています。

南伝仏教(スリランカ大寺派系上座部)も北伝仏教(有部、大乗など)もこの伝統を受け継いでいます。

また、物質的な対象をまったく持たない4つの「無色界定」は、「観」にはつながりません。

無常な現実を観察の対象とするのが「観」だからです。

ちなみに、「四無色」の「無所有処」は、「ない(非存在)」という対象に一体化した状態です。「非想非非想処」は、「存在」を対象にもせず、「非存在」をも対象にしない、つまり、一切の対象が存在しない心だけの状態になります。


大乗仏教


大乗仏教の修行階梯の特徴は、準備段階(加行・前行)として、心を浄化するための様々な「止」の瞑想が豊富に準備されていることです。

「六加行」「七支分」「心の訓練」などで括られる瞑想法がそれです。

具体的には、信仰心や慈悲の心、輪廻から離れる心などを育てるための各種の瞑想です。

大乗仏教には有神論的な側面があるので、これらの瞑想には、「帰依」「礼拝」「供養」「祈願」の性質を持つものが含まれます。

上座部の「四十業処」にも似たものがありますが、大乗仏教では、しっかりと順序立てて、精密化され、体系化されています。

また、大乗仏教では、「止」の対象は想念(概念やイメージ)のない「空」や、仏(仏像や仏画)を選ぶことが多くなります。

ちなみに、上座部でも仏像を見た時には、「善心」しか生じないと解きます。


密教


密教では、それに加えてマントラ(真言)や種子(梵字一字で表される創造の原型)、マンダラが「止」の対象として多くなります。

密教では、従来の止観行ではなく、イメージを思い描く「観想」や、「気をコントロール」する瞑想を行います。

しかし、これらの中にも止観の要素があり、止観はほぼ同時に一体的に行われます。

「観想」は主に「止」的要素が強い瞑想です。

中でも身体の一点に小さな曼荼羅を観想する「微細ヨガ」は高度な「止」力を鍛えます。

また、気を中央管に導き入れる瞑想は、結果として想念のない集中した高度な「止」の三昧の状態を導きます。


ゾクチェン、マハームドラー


マハームドラーやゾクチェン(心の本性の部)でも「止」に該当する瞑想を行います。

これらの「止」は、もっぱら、最初は何かを対象にして心を静めても、最終的には空間(虚空)を対象にし、対象をなくして、無想念の状態となります。

ゾクチェンでは同時にその状態での「気づき」を重視しますので、「観」的要素も含んでいます。

その後、概念やイメージが自由に現れるようにして、それを観察しますが、ここにも「観」の要素があるでしょう。



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