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「想像」の塊な私たちに「偶然」がもたらすこと

偶然に起きたことから始まる3つの物語。

3人の主人公たちはみんな勘違いをしている。

「元彼は未だに私のことを人生で一番の女だと思っているはずだ」
「私には人より秀でていることが何もないんじゃないか」
「駅で偶然すれ違ったこの女性は、20年前の恋人に違いない」


それぞれの勘違いは、現在の交流の中で解かれていく。

「自分」とは「過去」の結晶。
「過去」とは自分の中にしかない、ある種の「想像」でしかない。
「想像」でできた「自分」。

偶然、自分の想像の世界に他者が介入したとき、
主人公たちは作り上げた過去を上書きして、少し傷ついて、成長する。


どれも身に覚えのある話ばかり。

3人ともそれぞれに全く違った女性なのに、それぞれに共感する部分がある。
離れていても、別れていても、自分の所有物であるという元恋人に対するエゴであったりとか、
認められないけれど、どうしようもなく自分な部分に絶望する毎日だとか、ずっと昔の、相手からしたら取るに足らなかったような出来事が自分をずっと支えているということだったり、

それは全部、客観的な事実ではなく自分の中にだけあるただの「想像」なんだけど。

でも、私たちはそういう自己形成の仕方しかできない。
どうなっていかなければならないとかではなくて、それが人生だと。
みんな主観の塊で生きているのだから、他人にとってどうであろうと、自分の捉え方をすることこそが自分を生きるということなのだ。

一度だけ、キャストがカメラ目線になるシーンが第二話の中盤にあった。

「変えようのない自分の姿が、人から見て吐き気を催すようなものだとしたら、どうしたらいいのでしょう?」

と、主人公が師事する大学の教授に問う。

「もし、周囲から自分のことを無価値だと思わされたなら、抵抗してください。社会の物差しで自分を図られることを拒んでください。あなたはあなただけが知っている自分の価値を抱き締めなければなりません。それを1人でするのはとても辛いことです。それでも、それをしなくてはなりません。そうして守られたものだけが、思いもよらず誰かと繋がり、励ますことがあるからです。それは一生起こらないかもしれません。でも誰かがしなくては、いつまでもそれは起こりません。」

恐ろしいくらいの棒読みで語られるこの言葉が、濱口監督が最も伝えたいことなのではないだろうか。

偶然、それが起こったとき。思いも寄らない人のことを思わぬ形で救うかもしれない。生きる意味なんてものはないけど、そういうことが、人生の素敵なことなんじゃないだろうか。
誰とも共有できないけれど確かにある強い思いが、自分の行動を変え、自分の行動が誰かの感情に影響を及ぼす。
影響を目的とするのではなく、流されない何かを持っていることが必然的に周囲に影響を与えるのだ。
流れる濁流の中でただ踏ん張って動かない人が、川の流れを変えるのだ。

第三話ではそれが現象として昇華されている。

主人公は、20年前の恋人に会うためにはるばる同窓会に訪れるが、
全く違う女性を恋人と勘違いしてしまう。
別人だとわかったうえで、初対面の女性に、恋人にずっと伝えたかった想いを打ち明けるのだ。

「…あの時電話を切ってしまった。そしてもう二度とかけなかった。その時私が言いたかったのは、あなたを愛しているということ。あなたは他の誰かでいいかもしれないけど、私は他の誰かじゃダメなの。私と生きていくことは、あなたの人生を難しくするかもしれないけど、それでも私を選んで欲しいということ。そのことを言えなかった。
…けど私は今のあなたに何かを望んでここまで来たんじゃない。ただ、その時そう思っていた私がいたって伝えたかった。あなたを苦しめるとしてもいうべきだった。その苦しみが私たちの人生には必要だってわかったの」

この言葉で、偶然、恋人と間違えられてしまった女性の中でも遠い日の記憶が蘇る。
きっと、一生思い出すこともなかったかもしれないけれど、

心の奥底で自分を支えていた、ささやかで温かな記憶。

少しずつ、夫や子どものために生きる人生にすり減っていた彼女に、その古い記憶は新しい力を吹き込んだ。

想像で作られた全く別々の人生が、偶然思いも寄らない形で交わったとき、小さな奇跡が起きた。


ただそれだけの、だからこそ救いがある物語。


※トップの画像は以下の公式HPより

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