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『ちょっと思い出しただけ』の池松壮太の部屋のシーンが好きだ

最近、終わりから始まるラブストーリーが多い。
終わりを知っているとどのシーンにも影が落ちてしまう。
幸せそうなシーンほど白けてしまう。

でも、そもそも私たち、別に何かのゴールに向かって生きてるわけじゃない。

この映画がオマージュしている、ジム・ジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」はまさしくそういう話で。

タクシーの中のような、「通過点」と思われがちな場所にも物語はあるんだよ。
ただ目の前を通り過ぎていく人とも、私たちはどうしようもなく関係を持ってしまうし、関係の深さに関係なく、大きな影響を受けてしまうこともある。
そんなことがこの世で無数に起きている。だから孤独になんてなりたくたってなれないよ。

みたいな感じに解釈している。


作中で、出会った時から少しずつ状況が変わっていく池松壮亮と、
変わらずタクシー運転をし続ける主人公の伊藤沙莉。

タクシーの運転手って、ずっと移動しているようでどこにも移動していない。
行き先は客が決めてくれる。でも、そこに降り立つのは客だけであって、運転手はどこにも降り立てず彷徨い続ける。

ずっと変わらない愛を語る伊藤沙莉と、人生の転換期を迎える池松壮亮。

二人の間に生まれた歪みが関係を変えていくのは自明で…。


誰しもその人のペースで生きているから、完全に歩幅が揃うことはもちろんなく、
どんなに大切な人も、一緒のタイミングで死ぬことはできないし、
同時に気持ちが冷めていくこともない。

ただ孤独な自分の前を自分以外の全てのことが通り過ぎていく。


この話の肝は池松壮亮の賃貸のアパートに凝縮されていると思う。


シーンが変わるごとに、少しずつ変わっていく部屋の中。
最後(最初?)には、住人も変わってしまう。
でも変わらないものもあって。

薄暗い部屋に気だるく降り注ぐ朝日。
その中で、毎朝植物の水やりと一緒に繰り返される体操。
気付いたら生活の一部になっていた、昔の恋人が置き去りにした習慣。
特別な日にもらったものとか、最高に楽しかったデートの記憶よりも、その人と深く交わっていたことの証なんだと思った。

どんなに酷い別れ方をしても、過ごした時間がなくなることはなく、
辿り着く場所は別々だったとしても、最後まで残るものがある。
そういう捨てようにも捨てられない厄介なものが、誰かの人生を作っていると思うと眩しい気持ちなる。
人と人と関わることの面白さは、意図せず相手に作用してしまうことだと思う。気づけば混ざって、削って、また混ざって。
そうやって私もできている。

終わってしまったことが、ずっと誰かを勇気づけるかもしれないし、
綺麗にまとまらなくても、道中で心動かされる何かがあったなら
それだけで十分、世界とあなたが繋がってる証になるんじゃないだろうか。

この文章みたいにね。





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