見出し画像

夜間非行 第1話


あらすじ

――にせ税理士にご注意ください 

鷹桐忍は獣医学部を卒業したものの三回連続で獣医師国家試験に落第した。忍は学生時代は仮想通貨投資に熱心でビットコインバブルの波に乗り、数千万円の利益を得たが、国家試験に落第したことが心の傷となり、一切の投資活動から足を洗った。

猛禽類専門獣医師である父の富士雄が営む鷹桐動物病院で助手を務め、メンフクロウズーイを飼う平凡な日常に埋没していた忍のもとに税務調査のメスが入る。

九時間もの税務調査があった当夜、税務調査官が不審な死を遂げる。

鷹桐忍は「無申告のマネーロンダリング男」、相方の藪内カヲルは「マッチングアプリの詐欺女」、富士雄は「ハゲワシに死体を食わせる遺体処理屋」という嫌疑をかけられ、当局にマークされるが……。

作・神原月人

プロローグ

 令和三年(二〇二一年)某月某日某所

 マッチングアプリ『ア・エ・ルナ』のページにアクセスすると、海外セレブさながらの見目麗しい女性から友達申請があった。
 豊かな胸元にばかり目がいくが、プロフィール写真にも増して、自己紹介欄に綴られた経歴はなんとも華やかだった。
 勤務地は銀座。
 職種は医療関係。
 年収は一千万円オーバー。
 モテない男の性もあり、無条件で承認する。 

 やほー、カヲルだよ。
 フレンド登録ありがとう。
 最近、趣味で投資を始めてみたんだけど、カレシよりも稼ぐようになっちゃったせいで嫉妬されて、それでオワカレしちゃったの。
 嫉妬する男って、ダメね。
 お金は自分で稼げるけど、身体が寂しいんだ。
 割り切った関係を求めているんだけど、もしかして真剣な人?
 あ、お金が必要だったら、稼ぎ方を教えてあげるよ。
 仮想通貨投資って、知ってるかな。
 暗号資産とも言うよね。
 ビットコインやイーサリアムなんかが有名だけど、あれはちょっと上がり過ぎ。今はほとんど無価値だけど、これから絶対に上がるだろうな、というマイナーな通貨があって、ひそかに目を付けてるのがあるんだけど。
 興味ある?
 まどろっこしいのは嫌いだから、直接電話でお話したいな。

第1話

 東京都目黒区鷹番にある、新築して数年の平屋に単身で訪れた税務調査官は、およそ人間味のない若い男だった。

 玄関先でぎこちない挨拶を交わし、こちらが用意した灰色のスリッパを履いた男は、野暮ったい無地のスーツを着た国家公務員というより、動作の緩慢な徴税ロボットのように思えた。

 新型コロナウイルスが世界的に蔓延し、二年近くが経つ。街中ではマスク着用が義務とされ、口元が隠れる日常が当たり前となった。男は怪しい人間ではないと強調するためか、おもむろにマスクを外し素顔を晒した。それから、いそいそとマスクを付け直す。洗練された動作とは程遠く、ぎこちなさばかりが際立った。

 マスクを外すタイミングがおかしくないか、という疑問はさて置き玄関脇のリビングに案内する。黒縁眼鏡をかけた徴税ロボットは、お上からあらかじめプログロムされていたかのように顔写真付きの身分証明書を提示した。名刺ケースからうやうやしく縦書きの名刺を取り出し、怪訝な顔つきを隠そうともしない鷹桐たかとうしのぶに手渡した。

 さすがはお役所らしく、デザイン性皆無の白地の右端に『目黒税務署 個人課税第二部門』と大書され、中央に『事務官 山本波呂』と黒字で記されている。目黒税務署の代表番号と内線番号が併記された上には、男と女が手を繋いで円を描いたシルエットの中に太字で『税』と書かれており、その下に『正しい申告 正しい納税』という標語が載せられている。

 これだけでも噴飯物なのに、名刺を裏返すと、さらに失笑を禁じ得ない記述が印字されていた。枠線で囲まれた『連絡事項』の下の注釈を見て、表情ひとつ変えられないでいられるほど忍は鉄仮面ではない。どちらかといえば、感情が表情に出やすい性質である。

◎にせ税理士にご注意ください 
税理士の身分は、税理士バッヂ、税理士証票、事務所の門標などから確認できます。(ご不明な場合は、税理士会や税務署にお問い合わせください)


 大真面目にこんな文言を名刺に印刷してしまうだなんて、センスがないにも程がある。真面目くさった顔をした徴税ロボットは布張りのダイニングチェアに腰掛けると、ぱんぱんに膨らんだ革鞄の中を漁り、分厚いバインダー、大判のメモ帳、万年筆を取り出した。

「それでは聞き取り調査を始めさせていただきます。まずは氏名と生年月日を教えてください」

 面倒くさいなと思いつつ、忍は淡々とした口調で氏名と生年月日を述べた。万年筆を手に持った山本もとい徴税ロボットは忍の発した言葉の逐一に小さく頷き、メモ帳に書き留めている。

「現在のご職業は?」
「大学を卒業して以来、ずっと無職です」

 忍がつっけんどんに答えると、徴税ロボットの眼鏡の奥に隠れた双眸がわずかに揺れた。正しい申告も正しい納税もしていない哀れな生き物を露骨に蔑んでいるような目だった。

「ご家族の構成と、これまでの経歴について話してください」

 まるでアルバイトの面接でも受けているかのような気分だった。

 ちらりと、冷蔵庫脇の止まり木に視線をやる。

 メンフクロウのズーイが片足を上げたまま寝こけている。

 夜行性のため、昼前のこの時間帯は微動だにしない。黒板を爪で引っ掻いたような金切り声を上げることもない。金茶と白の翼をはためかせたり、パラボラアンテナのようなハート形の白い顔を振ったりしなければ、まばたきひとつしないせいで、いつも置物の剥製と見間違えられる。

 リビングに入ってきた徴税ロボットはズーイには毛ほどの注意も払わなかった。室内をぐるりと見回した後、「家具も新しそうですね」と月並みなコメントを発したのみ。

「父の富士雄と二人暮らしです。父は猛禽類専門の獣医師で、東銀座で開業していますが、往診に出掛けることも多いです。僕も獣医学部を卒業しましたが、今は渋谷区南平台にある鳥類進化研究所に無給のボランティアスタッフとして在籍しています」

 無給の、という点をあえて強調した。

「所得がないのに、なんで来たの?」という嫌味でもある。

 獣医師国家試験に落ち続け、獣医師の資格を有していない点については不名誉の極みなので触れずにおいた。

 新卒合格率は八割を超える獣医師国家試験だが、既卒合格率は五割を大きく下回る。運悪く一度落ちると、確率論的には二度、三度と落ちることが半ば運命付けられている運試しゲームでしかないが、国家公務員試験の難関をくぐり抜けてきた公僕の目にはそうは映らないだろう。

 感情があるんだか、ないんだか分からない徴税ロボットの目には無様な落伍者と映っていることだろうし、税務調査に際してこちらの経歴など事前に下調べしてきているはずである。家庭環境やプライバシーなどすべて筒抜けだろうから、いちいち古傷を晒す必要もない。

 六年制の獣医学部を卒業したものの、天中殺並みに運悪く国家試験に三回滑り、自宅で暇を持て余すばかりの二十七歳である鷹桐忍に対して、目黒税務署から電話がかかってきたのは、つい五日前のことだった。

 電話の主は硬い声で山本と名乗り、「過去三年分の収入および支出の記録、預金通帳、仮想通貨取引関係の書類」を用意しておいてくださいと告げた。家を新築するにあたって、かさばる書類はほとんど捨ててしまった。出せるものは通帳ぐらいしかない、と逃げ口上を告げると、「それで構いません。大抵は調べがついていますから」と意味深な答えがあった。

 はてさて、この徴税ロボットは本物の税務調査官なのだろうか。

 名刺に「にせ税理士にご注意を」などと謳っているせいで、かえって胡散臭く思える。もしも目の前の男が偽物の税務調査官だったとしたら、目的はなんなのだろうか。

 どだい無職同然の忍が税務調査を受けるというのもおかしな話だった。身に覚えはなくもないが、わざわざ調査の手間をかけるものでもあるまい。

 事前の電話の際、調査にかかる時間はどれぐらいか、と問うと、「午前十時からスタートして、昼食休憩に一時間を挟みますが、終わりに関しては正確に何時、とはお答えできません。ですので一日、ご予定を空けておいていただきたく存じます」

 こちらの都合など清々しいほどまでに一切無視のお役所的返答にリアリティを覚えたが、調査に訪れた若造のぎこちなさはどうにも不自然極まりない。

 ひょっとして税務調査を口実に自宅内を物色しよう、という魂胆なのだろうか。下見目的のコソ泥か、あるいは特殊詐欺の可能性も考えたが、父子二人暮らしの鷹桐家にはさしたる財産も無し、税務調査官を装ってまで自宅を物色するような動機が思い浮かばない。

 調査には何人の人間が来るのか、と事前に問うたところ、
「午前中は私ひとりで参りますが、午後からは状況次第で別の者が参ることも有り得ます」
 という至極曖昧な回答だった。

 念のため、調査の目的はなにか、と問うと、「主に仮想通貨取引に関する内容についてお聞きしたい」とのことだった。

 電話がかかってきたのは八月二十五日。
 調査日は翌週の三十日と決まった。

 調査日当日、午前中いっぱいは当たり障りのない雑談が続いた。

 茹だるような夏の日は通り過ぎたが、いまだ残暑は厳しく、エアコンを切ると室内は蒸し風呂のような暑さになる。喉の渇きを考慮して涼しげな緑茶を振る舞ったが、山本は一切手をつけなかった。

 徴税ロボット然とした目の前の男は何もかもが不慣れな様子で、拭いがたい偽物臭さが垣間見えるが、いちおうは本物として遇するより仕方ない。

 招かれざる客とはいえ、公権力を相手に毒など盛るはずもないが、獣医師は職業柄、毒物劇物の類を手に入れようとすれば一般人より遥かに入手しやすい立場にあるのもまた事実である。忍はこれ見よがしに緑茶を飲み干したが、山本は口さえつけようとしない。

 毒性学教室の奥村教授などはほんの一滴で人間を死に至らしめるコブラ毒のアルファ・コブラトキシンの入った薬瓶をコレクションしている。

 国家試験直前講義で、奥村教授が語った言葉は今も鮮明に覚えている。冗談めかした口調ではなく、いたって真剣な声音だった。

「国家試験に落ちた後、ペットのコブラに手を咬ませて自殺を試みた教え子がいた。死ぬより苦しいから絶対に真似しては駄目だよ。自暴自棄になって、屋上から飛び降りようとしたり、首を吊ろうとしたり、電車のホームに飛び降りたりしても駄目だからね」

 蛇料理を振る舞う料理人がコブラの頭を切り落としたが、頭部だけになってもまだ完全には絶命しておらず、コブラの頭に飛びかかられて腕に噛みつかれ、血清投与が間に合わず搬送先で死亡、という衝撃的な前例もある。象すら殺せる神経毒を舐めちゃいけないよ、というのが奥村教授の毒性学のまとめであった。

 医学部や歯学部、獣医学部、薬学部は六年制である。通常の大学より二年もよけいに学んだ挙句、国家試験に落ちる衝撃はなかなか世間には理解してもらえないが、コブラに毒殺されてもかまわないと思い詰めるほどの衝撃だと語れば、おおよそは察してもらえる。

 マーク式の国家試験には魔物が棲んでいる。生真面目で成績優秀な学生ほどあれこれ考え過ぎてしまい、問題文を深読みし過ぎてしまう傾向にある。
総じて、「まさか、あいつが……」と噂されるような優等生タイプが落ちやすいから気をつけてね、と奥村教授が忠告していたのを耳にした時は「だったら大丈夫だ。生真面目でもないし、優等生でもないから」と高を括っていたが、いざ蓋を開けてみると同級生は皆、雁首揃えて無事合格を果たし、忍だけが撃沈した。

 自己採点では余裕の合格圏であったはずだが、マークを一列塗り間違えたのか、それとも名前を書き忘れる大チョンボでもしでかしたのか、とにもかくにも現実は残酷だった。

 現役受験者数三十七名、合格者数三十六名。生贄一名。

 合格率九七%という華々しい結果に大学関係者は沸き立ったが、完全パーフェクト試合ゲームを目前にして、すべてをぶち壊した戦犯である忍は究極的なまでに運の悪い卒業生として名を馳せた。父の富士雄が猛禽専門の獣医師として大学内外に名の知れた存在であったことも、よけいに忍の不運な身の上を引き立てる潤滑油として作用した。

「ああ、鷹桐さんのご子息ね。国試に落ちちゃったの? え、今年で二回目? いや、今度で三度目?」

 失笑を孕んだ噂話は正直聞き飽きていたし、かつての同級生たちには一度目の不合格時は心底憐れまれたが、それが二度、三度となると、冬の恒例行事と目されるようになった。

 例年、国家試験は二月半ばに二日間にわたって行われる。三月上旬の午前十時に農林水産省のホームページ上に合格者の受験番号が掲示されるが、外の世界の季節がどれだけ移り変わろうとも、忍の内的世界にはいまだ春は到来せずにいる。

 真冬の心は寒々と凍りついたままで、なにをしても楽しくないし、なにを食べても美味しくない。こんなことならば、獣医学部など端から目指さず、四年制の一般大学を卒業して就職浪人でもしているほうが何十倍、いや何百倍もマシだと思えた。そうはいっても国試に背を向けて敵前逃亡を図るのも業腹だ。

 もはや、まともな獣医師になろうという気にはなれず、いつかは獣医師になれるだろう、という楽観さえも失せつつあるが、農林水産省のサイト上に己の受験番号が燦然と輝かぬ限り、腐り切った忍の人生は好転しない。

 夜眠るたび、無粋なマークシートを塗り潰しては足を踏み外し、底の見えない暗闇に落っこちていく悪夢を繰り返し、繰り返し見るだろうことは明白だった。

「知識が足りないわけでもない。勉強量は十分。なのに、どうして落ちてしまうのですかね」

 奥村教授に不合格の報を伝えるたび、首を傾げられた。

「それは僕が聞きたいです」

 声を荒げたくなるのを必死に堪えて、陰鬱な笑みを口の端に浮かべながら「来年、また頑張ります」と言うので精いっぱいだった。

 毒性学教室からの帰り道、金属製保管庫に仕舞われたコブラ毒をかっぱらいたくなる衝動に駆られたことはあるが、大学の屋上から飛び降りたり、首を吊ろうとしたり、電車のホームに飛び込もうなどとは思わなかった。

 不運は味がしなくなるまで、じっと噛み締めるものだ。

 忍が獣医師国家試験に落第しても、猛禽狂いの父は同情さえなく、さしたる関心も示さなかった。猛禽のなかでも、父はとりわけハゲワシに愛情を注いだ。傷ついた野生のハゲワシを保護して、回復を手助けし、自然に返す活動にも積極的で、助けを求められれば全国どこへでも駆けつけた。

 父がなぜかくもハゲワシに惹き付けられるのか真意はよく分からない。死肉を漁る嫌われ者のイメージが定着しており、雄々しい鷹やコンドル、夜の番人たるフクロウを差し置き、あえてハゲワシに固執する心理は常人には理解しがたい。入れ込む理由は黙して語らず、忍にとっては長年の謎であり続けている。

 獣医になれば、あるいは獣医を目指すうちに、父がハゲワシを愛する気持ちを理解できるかもしれない、などと考えて安易に進路を選択したのはまさしく若気の至りだった。いまだに父の心境など、さっぱり理解できない。

 父が獣医などではなく、ふつうの職に就いていたなら、忍は獣医の道など志しはしなかっただろう。今の不遇の半分は猛禽狂いの父のせいだと思うと、筋違いの恨みさえ抱きたくなる。

 出口の見えない日々の中、それでも正気を失わずにいられたのは、ほとんどズーイのお陰だ。

 ハゲワシの保護活動に夢中で、しょっちゅう不在となる父に辟易した忍は、同級生の藪内カヲルに鷹桐動物病院の院長代理を務めてもらうことにした。

 父の留守中に診察してくれればいいだけなのに、なにかとお節介なカヲルからメンフクロウの雛をプレゼントされたのが、三年前のこと。

 生後四日目だというメンフクロウの雛は目がまだ開いておらず、全身ピンクの肌が剥き出しで、鉤爪ばかりがやけに大きく、身体ごと摘まみ上げると、その爪でバタバタと引っ掻いてきた。

 メープルシロップのような甘ったるい匂いをさせたふわふわな枕には、どれほど慰められたか分からない。あちこちに糞を撒き散らし、革張りのソファや衣類をずたずたにするのには閉口したけれど、夜間労働者であるズーイとの共同生活はことのほか愉快だった。

 メンフクロウの雛を飼い始めてしばらくすると、軍鶏料理屋を営む叔父の陸雄が甥っ子を連れて様子を見にやってきた。国家試験に落第し、半ば引きこもりと化した忍の生存確認の意図もあったのだろうが、さりげない気遣いは素直に嬉しかった。

 叔父は甥っ子の頭を撫でながら、「獣医のお兄ちゃんだよ」と忍を紹介した。叔父に雛の名を尋ねられたが、ふさわしい名前が思い浮かばず、ずっと名無しのままだった。

 言葉を覚えて間もない甥っ子が「獣医」と上手く発音できず、舌ったらずな甘えた声で「ズーイ、ズーイ」と連呼しているのがあまりにも可愛かったため、メンフクロウの雛に「ズーイ」という名を付けた。

 獣医ジューイじゃなくて、あくまでもズーイである。

 獣医師国家試験に落っこちた忍が飼うには、これ以上ないぐらいにふさわしい名前のような気がした。供に暮らすうち、この呼び名にかなりの愛着が湧いてしまったので、たとえ国試に受かろうとも、ズーイにはジューイに改名する機会は訪れないだろう。

 大学入学以来、悪い遊びはだいたい叔父の陸雄から教わった。

 競馬に競輪、ボートレース、パチンコ、賭け麻雀、それからスロットを教え込まれたが、自分に博打打ちの才能はない、とすぐに悟った。父はホモサピエンスに興味のない人だったから、なにくれとなく面倒を見てくれた叔父のほうがよほど父親らしく感じた。

 賭け事の延長線で、仮想通貨投資にも手を出したが、自分が運用するよりも他人に運用ノウハウを教える情報屋のほうが向いていた。誇大広告気味に「仮想通貨必勝法!」などと題した有料の情報商材を販売するや、空前の仮想通貨ブームの大波もあり、にわか投資家が殺到した。学生ローンを組んで仮想通貨に有り金をぶち込む命知らずの大学生までいた。

 儲けに目のくらんだにわか投資家が群れをなすのは、上昇相場の終焉の兆候である。忍自身も仮想通貨投資をしてはいたが、相場が過熱して大暴落する前までに手を引いていた。

 大学卒業までに数千万円ほど貯まっていたけれど、国家試験に落ちたのがショック過ぎて、ここ数年、投資らしい投資など何ひとつしていない。もっぱらズーイの写真を撮り、毎日のように観察日記を綴った。国試以前と以後で生活は分断したが、突然の税務調査は否応なしに忍の意識を過去に引き戻した。

 正午近くになり、ようやく調査目的と思しき雑談が一段落した。生い立ちやら、趣味やら、愛読書やらまで根掘り葉掘り聞かれたが、適当にぼかして答えた。何もかも、どうだっていい。

 メンフクロウのズーイは相も変わらず寝こけている。

 ズーイが眠っている間は、忍もまた微睡みに揺蕩っている。目の前の徴税ロボットが、果たして本物の税務調査官であるのか否か、それすらもどうだっていい。

「通帳を拝見させてください」

 預金通帳の残高を見た徴税ロボットが血相を変えた。無職のくせに数千万円もの大金を隠し持っているのが解せない、と言いたげだ。

「ずいぶんと大金をお持ちのようですね。生活の形跡がほとんど見られないのですが、電気代やガス代、水道代、ケータイ料金などは支払ってないのでしょうか」

 真面目くさった顔で阿保みたいな質問を投げかけてきたが、どこまで本気なのだろうか。

「同居していますので父がまとめて支払っています。お金をほとんど使わないので、気がついたら結構な額が貯まっていただけです。大学入学してから十年近く経っていますし、年に百万か、二百万そこらずつ貯まっていっただけです」

「なるほど。そうですか」

 どこをどう切り取っても納得していないような渋い表情を浮かべ、徴税ロボットは通帳をまじまじ見つめた。忍はもっぱらネットバンキングを利用しており、ろくに記帳をしていないので、合計記帳になっている箇所がいくつもある。それが余計に怪しく映ったらしい。

「運用履歴を綴ったブログを拝見しましたが、数年前まで仮想通貨投資をされていましたよね。かなり儲けられたのではないですか」

 仮想通貨投資に熱心だったのは国家試験前までの話である。

 忍の歪み切った時間認識からすれば、もはや古生代か紀元前にも等しい太古的出来事だった。

 国試以前の忍は当然ながら二足歩行だったし、枯れ枝や板切れのみでは火は起こせないにしても、人並みと言っていい程度の知能は備えていたし、脳容量だって今と大差ないだろう。しかして、獣医学部を卒業した年の冬に受けた国家試験以前の日々はもう遥か遠い過去なのだ。

 なんであれ、動くものにはたちまち飛びかかる翼を持った子猫のようなズーイはおらず、目まぐるしく変動する仮想通貨の価格に飛びつくのが日課だった博徒は、国家試験落第という手厳しい洗礼を受け、虚飾に満ちた生活を根本から改めた。

 一億円の運用益に到達したおくびととはいかないまでも、運用で儲かった金額を自慢するかのようないけ好かないブログを綴り、自身の投資ロジックを解説した情報商材まで販売していた頃の面影は、とうに消えている。ブログは長らく更新されてさえいない。

 これを更生というのか、改心というのかは知らないが、とにもかくにも毎日悔い改めながら清く正しく慎ましく暮らしている。それなのに、この徴税ロボットは忘却の彼方に過ぎ去った太古的記憶を園芸用のちゃちなアルミ製スコップで掘り起こそうとしている。

 他人の家の庭を土足で荒らし回り、挙句に掘り返そうとするなど冗談じゃない。パソコンのデスクトップ上を舐め回したぐらいでなにかが見つかるはずもない。太古以前の地層を掘り返したいならば、せめてブルドーザー並みの重機でも用意してきやがれ。じゃなきゃ、とっとと帰れ。

「ここ三年、投資はしていないですし、運用口座から資金をすべて引き上げています」

 証券会社から送られてきた口座開設完了の通知を見せ、過去三年分の年間損益報告書をプリントアウトしたものを卓上に叩きつけた。年間利益はどの年も「0」と記されている。

「たしかに運用の記録はありませんね。パソコンの中身を拝見してもよろしいですか」

 忍は人工大理石のテーブル脇に置かれたパソコンを手元に引き寄せた。管理画面を立ち上げ、億劫そうにログインパスワードを打ち込む。パスワードをど忘れしたふりをし、わざとログインエラーとなるようなミスタッチをする。こっそり横目で徴税ロボットの反応を伺うが、マネキン人形のように無表情だった。

 デスクトップには数個のアイコンしかなく、買ったばかりの新品同然にすっきりしている。

 壁紙の写真は飛行機よろしく翼を広げたズーイだ。つるつる滑るテーブル上をドタバタ歩いて突進しているドン・キホーテのごとき一幕は、撮り溜めた写真の中でもいちばんのお気に入りである。

 このお茶目な写真を撮った後、ズーイはテーブルの端から転げ落ちた。フローリングの床に不時着したズーイは起き上がり小法師のようにむくりと起き上がると、忍を恨めしそうに見上げてキイキイ鳴いた。笑ってんじゃねえよ、とでも言いたかったらしい。

 能面のようだった徴税ロボットの表情がわずかに歪んだ。タブレット一体型のノートパソコン上にあるフォルダを見て回り、メールのやり取りも忍の許可を得てからチェックしたが、苦々しげな表情をちらと見るだけで、「収穫無し」と言っているも同然だった。

 忍は内心で勝ち誇り、ざまあみろ、とほくそ笑んだ。

「ちょうど十二時ですので、一時間ばかりお昼休憩にしましょう。午後からはもう一人、別の者が聞き取りに参加することになると思います。ご了承のほど、よろしくお願いします」

 徴税ロボットはそそくさと立ち上がり、逃げるように鷹桐家を後にした。あれが本物の税務調査官だったとしたら、ちょろいものだ。追求らしい追及もなく、あまりの呆気なさに拍子抜けした。

 しかし解せない。本物の税務調査官が単身でのこのこ乗り込んでくるものだろうか。午後に二人で来るというなら、最初から二人で来ればいいではないか。税務調査はただの口実で、忍がどの程度の現金を貯め込んでいるかを確認したかっただけの気もする。

山本ヤマモト波呂ハロって、これ本名かよ。偽名くさいな」

 忍は名刺を見返し、吐き捨てるように言った。
 税務調査官を騙った偽物であるなら、もう二度とは来るまい。

第2話~


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?