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夜間非行 第5話

 人けのない路地から二階を見上げると、診察室の明かりはまだ灯っていた。カーテンは閉め切られており、微かに人影が動いているのが見える。

 カヲルは昼に電話をかけてきて、
「病院の前の木の枝にカラスの頭部が突き刺さっていた」
 と怯えた声で言った。

 忍は黒々とした電柱の脇に立つエンジュの木を根元から眺め、視線を徐々に上げてゆく。地面に向かって項垂れた梢にカラスの頭部らしき黒い物体が串刺しになっており、重みで枝葉がぶらぶら揺れる。

 通行人の目に触れないぐらいの絶妙な高さであり、周囲の薄暗さと相まってほとんど目立たないが、路地に面した診察室のガラス窓越しに覗けば、ちょうど死骸と目が合ってしまう位置関係にある。

 これがただの偶然なのか意図的な嫌がらせなのか判然としないが、もしも日中見かければ、即座に吐き気を催すぐらいには気色が悪い。

 槐の木陰に立ち、忍は小さく舌打ちした。本来ならば警察に通報すべき案件だろうが、厄介なことは税務署だけで沢山である。わざわざ通報することでもあるまい。警察の手など借りずとも下手人を炙り出せばいい。

 雑居ビルのエントランス脇にある集合ポストを覗く。

 郵便受けにハトの羽毛と切り取られた嘴が投げ込まれていた、とカヲルが言っていたが、それらしいものは見当たらない。動揺したカヲルが不吉めいた贈り物をさっさと片付けてしまったのかもしれない。

「手掛かりなし、か」

 カラスの頭部を切断し、ハトの羽毛と嘴を匿名で送りつけてくるような輩がおよそ友好的なはずはない。どう考えても悪意しかない。やられっ放しでは舐められるだけだ。

 いったいどこのどいつがしでかしたことなのか突き止めたかったが、手掛かりが何も残されていないのではどうしようもない。

「カヲルのやつ、ぜんぶ片付けやがったな」

 長時間、税務調査に拘束されていた忍はそれでなくとも苛立っていた。掃除をしてくれたらしいカヲルにさえ、腹が立つ。

 動物病院の待合室で、奇怪なドクロマスクを付けた中年男が貧乏揺すりをしていた。黒地の布にダークグレーの髑髏があしらわれ、白い歯列が浮かび上がっている。貧相な体躯、後退した髪、異様に突き出た喉仏よりも、まず真っ先にマスクに目が吸い寄せられた。

 こんな飼主は見覚えがない。鷹桐動物病院は時間予約制のため、そうと知らずに訪れる新患がなければ、あらかじめ忙しさは予想できる。今日は父がおらず、カヲルが一人で診察にあたっているため、受付は無人だった。

 忍は受付の電子カルテを眺めた。

 飼主・動物ページはほとんど入力されておらず、飼主名は空白、動物名・ドージ、動物種・犬、品種・ゴールデンレトリバーとだけ入力されていた。
カヲルにしてはずいぶんお粗末だな、と忍が思って見ていると、ドクロマスクが胡乱げな視線を寄越してきた。

「あんた、先生?」
「ええ、まあ」

 父のような威厳のない忍は、年齢よりも若く見られることが多い。いきなり動物病院にやってきた若造が受付のデータを確認したため、こいつは何者だと不審に思ったのだろう。

 あんたはここの動物病院の先生なのか、という問いかけだろうが、いちいち否定するのも肯定するのも面倒臭い。やんわりぼやかして答えると、動物メモ欄に見過ごせない記述が書き込まれていた。

 動物メモ:虐待の疑い

 あまりに簡潔な五文字にカヲルの心痛が滲んでいる気がして、ぞわりと全身の毛が逆立った。詳細に書かないのではない。これしか書けなかったのだ。あまりにも酷い状態だったがために。

 中年男は苛立たしげに貧乏揺すりを繰り返している。

「なあ、金返してくれよ。俺の金」

 男が譫言のように呟き、診察室の扉をじいっと凝視している。

 忍はぎょろりと目を剥き、男を威嚇した。ドクロマスクが一瞬、たじろいだ。こんなファッション髑髏など、しょせん見掛け倒しだ。獣医ですらない若造相手に戦意さえなかった。

「カヲルっ!」

 忍が診察室に飛び込むと、凄惨な光景が目に飛び込んできた。

 診察室と連なった処置室の手術台に、全身の皮膚が剥がれたように赤くただれ、両耳の角が焼け落ちたゴールデンレトリバーがぐったりと横たわっていた。

「……しーちゃん」

 今にも消え入りそうな声でカヲルが言った。

「ひどいな」

 そうとしか言えず、忍はそれっきり黙り込んだ。

 いったい、どうすればこんな惨い有様になるのだろう。

 家が火事にでもなったか、それか生きた犬に着火でもしない限り、おそらくこうはならない。

 男の顔に火傷のようなものは見当たらなかった。
 とすれば、導かれるのは最悪な結論だろう。

「ごめんね。私には助けてあげられない。痛かったね。苦しかったね。ごめんね、ごめんね」

 なんとか一人で立っていたカヲルがへなへなと腰砕けになった。

 動物の痛みを我がことのように受け止めるカヲルにすれば、自分自身が火に焼かれたも同然の痛みを覚えたことだろう。ドクロマスク男が飼犬に着火したという証拠はないが、そうであったのなら、許しがたい。まったくもって許しがたい行為だ。

「通報しよう、カヲル」

 忍が低く押し殺した声で言った。

 消沈したカヲルは、はい、とも、いいえ、とも答えなかった。

 答えなくていい。
 君の責任じゃない。だから傷付かないでくれ。
 そんな慰めの言葉など、何の役にも立ちはしない。

 忍はスマートフォンを手にすると、一一〇番をプッシュした。

「こちらは一一〇番の緊急電話です」

 間髪置かず、繋がった。

 怒りが沸点を超え、いつにも増して冷静になっていることを忍は自覚した。義憤に駆られたわけではなく、ただ事実をありのままに述べた。

「東銀座の鷹桐動物病院です。動物の虐待事案と思われるのですが、動物愛護関連法案に詳しい警察官はいらっしゃいますか」

「……少々お待ちください」

 電話に応答した声に戸惑いの色が滲む。

 人間絡みの事件や事故なら警察の範疇であるが、動物絡みの事件への対処には不慣れなのだろう。

 動物虐待事案に特化した相談窓口――アニマルポリスが設置されているのは全国で唯一、兵庫県警のみであった。令和元年に大阪府にもアニマルポリスが開設された、と耳にしたことがある。

 しかしながら東京には動物虐待事案に精通した人材がいないのか、アニマルポリスは未設置で、動物虐待事案等専用相談電話アニマルポリス・ホットラインもない。

 いいさ、汚れ仕事は俺がやろう。
 うちの獣医師を泣かせやがって。
 予想通りに虐待事案だったら、ただじゃおかねえ。

「動物が適切に飼養されていたのか、こちらで聞き取りを行います。飼主が逆上する可能性もあるため、念のため現場に警察官を寄越していただけますと幸いです」

 鷹桐動物病院の所在地を告げ、つつがなく通話を終える。手術台に横たわったゴールデンレトリバーにマイクロチップリーダーをかざすと、十五桁の固有番号が表示された。

 近年ペットの犬や猫に、飼主の情報を記録したマイクロチップを装着することが義務付けられた。動物ID情報データベースにアクセスし、固有番号を入力することで、飼主の氏名や連絡先を知ることができる。

 飼主名には、保護犬カフェ八王子店と表示された。

「……保護犬だったのか」

 虫の息の犬を見やり、忍がぽつりと言った。

 保護犬カフェにいる子たちは、野良犬の状態から保護されたり、身勝手な飼主に遺棄されたり、飼養に適さない悪環境から救い出されるといった傷付いた過去を持っている。

 ペットショップから迎えるよりも条件が厳しく、里親になるには最後まできちんと面倒をみることができるか審査がある。定期的にスタッフと連絡を取り合い、飼育の様子を撮影した写真を送るなどしなければならない。

 飼主名が保護犬カフェのままになっているのは、正式譲渡前になされる一週間から十日ほどのお試し飼いトライアルの最中だったからだろう。

 トライアルという言葉は気に入らなければ返せばいいという安易さを想像させる。とりあえず迎えてみよう、という気楽さの果てにあるのは、虐げられて、捨てられて、挙句殺処分となる動物の屍だ。

 なにがあろうと、命は返せない。掛け替えのない命を預かるのに、お試しなどという軽い言葉を用いるべきではない。

 いちど引き取ったら、最後まで面倒を見る。それが筋だ。

 お試しであれ、正式譲渡の覚悟がない人間に命は預けられない。

 無表情の仮面をまとった忍はドクロマスクに向き直った。

「今は鎮痛剤を与えて痛みをコントロールしていますが、全身が焼けただれており、皮膚移植を施しても長くは生きられないでしょう。この状態で生かし続ければ、地獄の苦しみを与え続けることになります。無駄な治療はせず、このまま痛みをコントロールし続けて、最後は安らかに逝けるようにしてやるのが良いと思いますが、いかがですか」

 極めて事務的に言うと、ドクロマスクはしゃあしゃあと応じた。

「あ、そう。じゃあ、一思いに殺してください。安楽死ってやつで」

 忍は虫けらを見るような冷たい視線を向けた。

 犬の名前がなんだったか忘れた。生きたまま犬に着火するような鬼畜に名付けられた名で呼んでほしくはないだろう。

 だが、名もなき犬の悲痛の声はしかと受け取った。
 今から罪を償ってもらうことにしよう。

「どうして火を点けたんですか」
「……は?」
「獣医ならば、見れば分かります。消毒用エタノールでも浴びせて、火の点いた割り箸でも押し付けましたか」

 忍が生々しい虐待事案を語ると、ドクロマスクが狼狽えた。

「そ、そんなこと……してない」
「では、なにを?」
「ち、ちょっとは悪かったと思ってる。だから病院に連れてきたんだ。あ、あの女が悪いんだ。お、お、俺の金を盗みやがって」

 ドクロマスクが診療室のドアを指差した。
 扉の先にいるのはカヲルだけだ。

 カヲルが金を盗んだ?

 まったく聞き捨てならない。

「話が見えないので順を追って話していただけますか。ご存知ないかもしれませんが、このところ動物虐待は厳罰化が進んでいます。動物愛護法の前身である動物保護法の罰則は、愛護動物を殺傷しても罰金刑だけでしたが、今はそんな生温くありません。事と次第によっては、五年以下の懲役または五百万円以下の罰金です」

 二〇〇〇年施行の動物愛護法に懲役刑が設けられた。動物虐待は厳罰化の方向であるが、いかんせん起訴のハードルは高い。犬や猫の殺傷は、加害者が隠してしまえば発覚しにくい。自ら病院に連れて行き、発覚したケースを処罰すべきかは悩ましい問題だ。

 罪もない動物がこれ以上傷付かないよう、動物虐待は犯罪である、という認識を世間に広めていくより道はない。

「たいへん心苦しいのですが、警察に通報させていただきました。どういった経緯で、トライアル中の保護犬に火を点けたのか。納得いくご説明が伺えない限り、塀の中で罪を償っていただくことになります」

 忍の冷徹な物言いに、ドクロマスクはすっかり涙目だった。
 泣きたいのはテメエじゃねえよ、と無性に腹が立つ。

「こ、これ……」

 ドクロマスクが見せたのは、マッチングアプリ『ア・エ・ルナ』でのやり取りだった。カヲルと名乗る銀座勤務の獣医が副業で仮想通貨投資をしており、お勧めの通貨を教えてくれたという。

 それが、Dogeドージcoinコイン

 ドージとはdog(犬)のスラングであるdogeが由来で、ビットコインを模倣した草コイン――知名度が低く、投機性が高い仮想通貨である。このところ毎月最高値を更新し、それにつれて知名度も上昇しているが、日本では取り扱う取引所がないため、気軽に取引ができない。

「このカヲルって女に金を預けたら、すぐに二倍になった。あっという間に三倍、四倍。こりゃスゲエと思って二百万預けたら、それっきり音沙汰無しだ。……せっかく犬も飼ったのに」

 金を騙し取られたと知ったドクロマスクは、むしゃくしゃして、飼い始めたばかりのゴールデンレトリバーにウォッカをぶちまけ、衝動的に火を点けたという。

 擁護すべき点は何ひとつなかった。

 しかし、語ったすべてが真実ではあるまい。ドクロマスクの言葉通り、衝動的にではなく、極めて計画的な犯行だと思う。

 カヲルと名乗ったプロフィール写真は本人と似ても似つかない。やけに煽情的だが、あまり名の知れていないモデルの写真でも勝手に使ったのだろう。真実味を出すため架空の人物像ではなく、現実に存在する藪内カヲルの経歴を拝借し、本人になりすました。

 ドクロマスクは自身の金を奪ったカヲルの顔を拝むため、わざわざカラスの首を切断し、動物病院前の木に串刺しにした。しかし、現れた獣医らしき女はプロフィール写真とちっとも似ていない。

 もしやこの女はマッチングアプリの女ではないかもしれない、とどんな阿呆だって気がつきそうなものだ。しかし確かめる術はない。

 いっそのこと犬を燃やし、動物病院に駆け込めばいい。

 詐欺女だったら、締め上げて返金させる。
 詐欺女でないなら、見逃す。

 たぶん、そんなようなことを考えたのだろう。保護犬カフェから貰われてきたゴールデンレトリバーは、とんだとばっちりだ。

「会ったこともない相手にどうして金を渡すんですか」

 忍が蔑みの目を向けた。
 今さら、投資は自己責任などと言いはしない。
 会ったこともない相手に金を渡す馬鹿が悪い。それで逆恨みして、無実の女性と保護犬に手酷い痛手を追わせた。処置無しだ。

「会ったことないけど、電話で話した。ちゃんと女の声だった」

 ドクロマスクが弁解がましく言い立てるが、忍の冷たい目がさらに冷たさを増すだけだった。

「ボイスチェンジャーで声を変えていたんじゃないですか」

 アプリ上でメッセージをやり取りしたり、電話でちょっと話しただけの見ず知らずの相手に、なぜ大金を振り込むのか、まるで解せない。

 自分で運用して、全財産吹き飛ばす方がまだマシだ。

 動物病院の外から足音がした。どうやら警察官が現着したらしい。

 事件性が定かではないためか、パトカーはサイレンを鳴らしていなかった。

 警察にこの状況を説明するのが煩わしい。

 とっとと檻の中にぶち込んでくれればいい、と思いつつ、忍は警察に対応した。

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