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夜間非行 第22話

 国家試験に落ちる悪夢を見て、目が覚めた。

 忍は試験会場でマークを塗り潰しているが、足下が徐々に崩れていき、為す術なく奈落の底へと落ちていく、毎度お馴染の夢。

「くそっ……」

 こめかみがずきりと痛み、よろよろと身を起こした。

 獣医学部を卒業してから、生活は規則正しくなったはずなのに、安眠できたことがない。

 二十四時間三百六十五日取引できる仮想通貨投資に熱心だった頃、忍は完全なる夜行性だった。深夜二時、三時は忍にとっては昼も同然で、乱高下する相場の波に飛び乗る刺激的な毎日を謳歌した。

 投資から足を洗い、ズーイの世話をするのが日課になって以降、忍の生活はだいぶ規則正しくなった。日付が変わるぐらいになれば眠りにつく。夜更けに活動的になるのはズーイの役割となった。

 家庭内別居する父は忍にも増して早寝だ。忍の知らぬ間に眠り、忍の知らぬ間に外出する。総じて、家にいるんだか、いないんだか、気配らしい気配を感じさせない。

 枕元でスマートフォンが明滅していた。

 カヲルはかつての忍に負けず劣らずの夜行性で、深夜三時過ぎにも平気で電話がかかってきては他愛ない会話を延々と続けた。生活が改まると、カヲルからの連絡がわずらわしくなった。

 スマホの着信音をオフにし、微振動するだけの設定に変えると、カヲルからの連絡があっても朝まで応答しないのが常となった。

「なんだよ、うるさいな」

 嫌がらせのようにカヲルから連絡があった。どうせ大した用事でもあるまいに、いくらなんでもしつこ過ぎる。根負けしたわけではなく、「うるせえ。早く寝ろ」と怒鳴ってから眠ることにした。

「なんだよ、今何時だと思ってる」

 忍が苛立った声で応じると、カヲルがやけに真剣な調子で言った。

「しーちゃん、大変なの!」
「なんだよ。モリーが怪我でもしたのか」
「違う。首! 首!」

 焦って喋るので、要領を得ない。

「落ち着け。なんだよ、何があった」

 忍が心持ち冷静に言った。

「しーちゃん、あのね。大変なの」
「だから何が大変なんだよ」

 カヲルは戸外にいるのか、ずいぶんと背後が騒がしい。

「今、どこにいる?」

 忍が訊ねると、カヲルがわずかに言い淀んだ。

「……林試の森」
「はあ? 野宿でもしてたのか。深夜二時だぞ」
「違うよ。夜の散歩」

 電話越しにカヲルがむくれた。

「用件はなんだよ。俺は気分が悪いんだ。さっさと話せ」
「用事がなきゃ、電話しちゃいけないの?」

 カヲルがぶつくさ言っているのが無性に腹が立つ。

「いいから話せ。話さねえなら切るぞ」
「うん。あのね、しーちゃん。驚かないで聞いてほしいんだけど」
「だから、なんだよ」

 あまりにも焦れったくて、忍は頭を掻きむしった。

「しーちゃん、税務調査があったのって目黒税務署だよね」
「そうだよ。それがどうした」
「目黒税務署の職員が林試の森で首を吊ったの。私が第一発見者で、警察に事情聴取されてる」

 想像もしていなかった方向から殴られたような衝撃を覚えた。
 忍が素っ頓狂な声をあげた。

「……はあ?」
「しーちゃん家にも警察が行くみたい。ごめんね。先にしーちゃんに連絡してから警察に通報するべきだったかな。でも、しーちゃん、ぜんぜん電話に出てくれないし」

 今にも消え入りそうなか細い声でカヲルが訊ねた。

「しーちゃんがったわけじゃないよね」
「意味が分かんねえ。首吊ったなら自殺じゃねえのか」
「林業発祥の地と書いてある石碑があるでしょう。首を吊ったのはあの近くにあるクスノキなの」

 カヲルがおそるおそる訊ねてきた理由が知れた。

「あの辺のクスノキなら四、五メートルぐらいの高さがあるな」
「警察の人も言っていたんだけど、自殺を考えるぐらい思い詰めている人間がわざわざあんな高い木に登るわけがないって。そもそも普通の人間がよじ登れるような高さじゃない」

 さっぱり身に覚えがないが、警察は他殺を疑っているらしい。

「他殺の線が濃いってことか」
「そうみたい」

 カヲルが言いずらそうに続けた。

「私もちょっと疑われているみたいで」
「はあ? なんでだよ」
「第一発見者が犯人である可能性がすぐに否定出来ない状況では、警察は第一発見者をまず犯人として最初に疑うのが捜査の原則ですので、聞き取りに協力願います……って丁寧に説明された」

 カヲルがぼそぼそと小声で言った。

「なんでこんな時間に森をうろついてるんだよ」
「え、それはその……」

 カヲルの歯切れが悪い。

「もしかして、お前が殺したわけ?」

 忍が冗談のつもりで言うと、カヲルが激怒した。

「そんなわけないじゃない! しーちゃんのバカ!」

 一方的に通話が途切れた。

「なんなんだよ」

 忍がスマホを睨みつける。

 遠くからパトカーのサイレンが鳴り響く。不意にサイレンの音が止んだかと思いきや、インターホンが鳴った。

「夜分遅くに失礼します。碑文谷警察署の大熊と申します。少しお話を伺わせてください」

 がっしりとした体躯の巨漢がドアホン越しに警察手帳をかざした。言葉遣いは礼儀正しいが、有無を言わさぬ圧力がある。

 本物の警察のお出ましらしく、どうやらこれはカヲルの悪戯ではないらしい。おおよその事情はカヲルから聞いているが、忍は父を叩き起こすべきか判じかねた。

 父の眠るコンテナにそっと足を踏み入れる。父は生きた彫刻のように微動だにせず、目を見開いたまま眠っていた。

「こわっ……」

 見てはいけないものを見た気がして、忍はそそくさと退散した。

 警察にはひとまず忍が対応しなければならないらしい。用心のためドアチェーンをしたまま、薄く玄関扉を開く。

「鷹桐忍さんですね。鷹桐富士雄さんはご在宅ですか」
「父は眠っています。僕が話を伺います」
「林試の森で首吊り遺体が発見されました。林試の森に行かれたことはありますか」
「ええ。何度か」

 大熊と名乗った警察官は手帳に忍の発言を書きつけた。

「山本波呂という男はご存知ですか」
「ええ、まあ」
「どのようなご関係でしょうか」

 警察はすでに把握済みの内容をあえて訊ねてきているのだろう。
 このような聞き取り方は税務署で嫌というほど味わった。

「ちょっと待ってください。首を吊ったのはその方なんですか」

 忍が訊ね返すと、警察官は勿体ぶったように言った。

「捜査に関わる内容ですので、お答えできません」
「でしたら、こちらもお答えできません。お引き取りください」

 忍が素気すげなく追い返そうとする。
 警察官は抜け目なくドアの隙間に足を差し入れた。

「もう少しお話を伺わせてください。まずはドアを開けていただけませんか」
「首を吊ったのが誰なのか、回答いただけないのならこれ以上お話することはありません。お帰りください」

 忍が拒絶の意思を示すと、警察官が態度を軟化させた。わざとらしく口元に手を当て、声を低めた。

「あまり大きな声では言えませんが、首吊り遺体のあった木の根本に名刺が落ちていました。名刺には目黒税務署山本波呂と書かれておりました」

 捜査に関わる内容だから、と情報の開示を拒んだくせに、捜査情報の一端を漏らした。一般人に知られても支障のない撒き餌に忍が食いつくか、反応を窺っているのだろう。

「名刺が落ちていただけですか」
「そうです」
「首を吊ったのは、名刺に名前のある方で間違いないのですか」

 忍が冷静に指摘すると、警察官が薄く笑った。

「鋭いご指摘ですね」
「大したことはありません」
「いえ、なかなか鋭いご指摘だと感心しました。首を吊った遺体があり、木の下に名刺が落ちていれば、それは首を吊った当人のものと自然に考えるものです」

 警察官が挑発するように言った。

「指摘が不自然だと?」
「いえいえ、たいへん理性的な頭脳をお持ちだと感心しております。警察学校の学生たちにも見習わせたいぐらいです」
「それはどうも」

 忍が玄関ドアを閉めようとするが、警察官は退こうとしない。

「お話はもういいでしょう。お帰りください」
「いえ、こちらの質問に答えていただいておりません。もういちどお訊ねします。山本波呂という男とはどういうご関係ですか」

 既に知っていることを知らぬ体で訊ねてくることに腹が立つ。

「もうご存知でしょう。お話することはありません」
「鷹桐さんの口から直接お聞きしたいですね」

 玄関先で押し問答していると、背後から音もなく父が現れた。

「鷹桐富士雄さんですね。夜分遅くに失礼いたします。少々お話を伺ってもよろしいでしょうか」

 経緯を黙って聞いていた父にそこはかとなく殺気が滲む。

「他殺を疑っているのか」
「端的に言えば、そうですね」

 父も苛立っていたのか、捨て台詞のように言った。

「なぜ首吊りに見せかける必要がある。俺ならハゲワシに食わせる。そうすれば骨まで残らん

 一瞬、警察官が呆気に取られた。

「聞き捨てなりませんね。ちょっと署までご同行願えますか」

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