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わたしにとって「慣れる」ということ

カンボジアにきてもうすぐで半年となる今
ちょっとだけ、視界が開けた感じがする

「環境になれただけ」

それだけかもしれない

でも
わたしにとって
この「慣れる」って
とても大きいことで
一言で片づけるには
ちょっともったいない感じもして…

その大きさを実感している今
これからのヒントというか、挑戦するときに
わたしの背中を押してくれる
そんなものになりそうな気がしている

だから
まだ気づきたてのうちに
ここに綴っておきたい
この感覚がどっかいってしまったときに
引っぱり出せるように。


慣れるとは
 その状態に長く置かれたり、たびたびそれを経験したりして、違和感がなくなる。通常のこととして受け入れられるようになる。

 経験を重ねて、そのことがうまくできるようになる。習熟する。

 道具などが、からだになじむ。


言葉でみると
どうってことないただの時間の経過の一つにも思えるが

新しい環境にポンっとおかれたときや
何か新しいことに取り組むとき

慣れることが
とても遠く感じ
焦りも混じる違和感をおぼえる



ちょっと息苦しいような
ちょっと痛いような
でもその新鮮さにわくわくする気持ち


つい、
「早く慣れないと!」
という思考に走ってしまう

思考の癖。

反対に
慣れた状態を知っているから
早くそこに行きたいと
欲が出ているのかもしれない

じゃあ

早く慣れた先に何があるのか?
早くても遅くてもたどり着くのは「慣れた」という状態
同じじゃないか?

あくまでわたしの考えだけど
今はそう思う。


いつまでに慣れる!と目標をたてても
モチベーションにはなるかもしれないが
よし慣れた!となるのは自分の感覚であって
気づいたらそうなっていたという方がしっくりくるもの。

ということは
慣れることに「早く!」を求めるのは
そこまで重要ではないのかもしれない

大事なのは
慣れるか慣れないかではなく

目の前のことに
ただひたすら向き合う
且つ丁寧に

という気がする


言ってしまえば
それしかできないんじゃないか?


時間がかかりそうだ。
そのうち慣れるだろう。
無理かもしれない。

色々思って想像することはできても
明日すぐに「慣れる」を手に入れることは
タイムスリップでもしないとできない



ここで少し視点を変えてみる

人の体にはホメオスタシスという機能があり
順応していく力が備わっている

それは頑張ってするものでもなく
自然にやってくれている


カラダが環境に慣れるということだけ見たとして
よく
「はやく慣れないとな~」
というけれど
それをやるのは細胞であって

わたしにできるのは
カラダからのサインを見逃さないこと
だと思う

例えば、
疲れ
ねむい
痛い

みんな「休んでね」のサイン


カラダも慣れようとして
いろんなサインを出すのに
「早く慣れないと!」
と無視して突っ走ていては
慣れるものも慣れない


つまり
自分にできることと
カラダの機能に任せる部分を
意識してみるのもいいかもしれない
ということ




といってもきっとわたしは
少しの焦りと不安を持ちながら
でもそれにワクワクもしながら
やっていくんだと思う

それでいいと思う

焦るなということではなくて
そう思った瞬間に
この今の感覚を思い出してね
ということ

焦るきもち
不安なきもちは
気づいたら
出てきちゃうし消せないし


その時は見えなくてもそれで大丈夫。

「そのうち慣れているから」

「そのうち見えてくるから」



そのうち慣れるんだから
慣れるまでの新鮮さを存分に味わえばいい
それに集中すればいい


「慣れる」ことに
早く早くと焦って
それを繰り返してたら
ちょっと見えてきたものもある


焦ってた時間も無駄じゃなかったよ

って言ってみる笑


あたりまえのことに
改めて気づかされて
納得してしまう

そういう時間がたくさんある


自分が見て感じたものを
素直に受け入れる


「慣れてないこと」に
前よりすこしだけ
わくわくしていけそう。


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