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『レスポワールで会いましょう』第4話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・佐山みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷が癒えるのを待たずに元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら日々の仕事をこなすなか、外部スタッフとして会社に現れた岡田と、カフェ「L'espoir(レスポワール)」でひんぱんに顔を合わせるようになる。

※第1話、およびストーリーのところどころにストーカー事件に関わる描写があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。

第4話

検察庁から帰る足取りは、自分のものとは思えないほど重かった。

尾崎によって起こされた事件からは2週間ほど経っている。検察側が起訴または不起訴を決めるにあたり、検事からの呼び出しに応じたところだった。
TVドラマで見るような部屋に案内され、検事による事情聴取を受けた。

ようやく日常に心を落ち着けられつつあったのに、事件のことを鮮やかに思い出す必要に駆られることばかりで、少しずつ気分が塞がっていく時間が過ぎた。

A県内の地方検察庁からみのりの自宅までの途中には、会社の最寄り駅であるあかつき新町駅がある。
午後半休を取ったとはいえ、なんとなくまっすぐに自宅に帰りたくない。みのりは、あかつき新町の隣駅で電車を降り、いつもの「L’espoirレスポワール」にたどり着いていた。

「ホットのブレンドコーヒー、ショートでお願いします」

疲弊しきった心を癒すのは、「いつもの」だ。いつもの経路、いつものコーヒー、いつもの――。

店内フロアの片隅に、いつものように岡田が座っていた。これまでも何度か「L’espoir」で姿を見かけた。ワイヤレスイヤホンをし、英語の書籍と向き合う姿を。ふだんのみのりはそんな岡田を横目に見て、通りすぎざまに会釈をするだけだ。

けれど今夜、店内はいつもより混雑している。岡田のテーブルと十分に距離を取れるほど、空席の数は多くない。
仕方なく、みのりは岡田の右隣のテーブルを選び、伸びをする小人のような曲線を描く木のチェアに腰を落とした。

かたん。
みのりがテーブルにトレイを置く音が響く。岡田は顔を上げ、みのりを見た。「管理課の佐山さん」を認識した様子だ。

「隣に座るなんて珍しいですね。毎度毎度、避けられてるんだと思ってました」

右耳からイヤホンを外した岡田が、柔らかな笑顔を見せる。向かって右の口角のほうが上がるアンバランスさが、かえって人懐こさを感じさせた。

(シンメトリーな顔が魅力的だなんて聞いたことがあるけど、あれは嘘かもしれないなあ)

みのりはそう思いながら、口を開いた。

「なんか、混んでて。お隣、すみません。お仕事かお勉強中でしたよね」

岡田は、みのりを表情をうかがうように見上げてから笑った。

「いえ、全然。お疲れ様です」

社交辞令とすら呼べない、お決まりの「お疲れ様」がこのときばかりは心にしみる。みのりは心を占領する疲労感を扱いかねて、思わずため息をつきながら返事をした。

「お疲れ様です。……ああ、疲れました、ほんとうに」

検事とのやりとりを思い返す。

尾崎にはいくつかの罪が重なるだろうとは、事前に刑事からも聞いていた。
みのりを拉致し、自動車内に監禁して連れ回したこと、ナイフを突きつけたときにみのりの鎖骨付近に傷を負わせたことはもちろん、ガソリンスタンドで給油するときにみのりの財布を奪って支払いを済ませた行為も強盗に当たる可能性が極めて高いこと。
それらを罪に問うべく正確な調書を作成しなければならない。事件当日に起こったことの仔細をあれこれ聞かれるだろうとは覚悟していた。

しかし、「事件の日、途中で逃げようと思えば逃げられるポイントがいくつもあったかと思うのですが、逃げなかったのはなぜですか」と検事に聞かれたとき、みのりは引き締めた口もとから力が抜けていくのを感じた。

事件のあいだ、みのりが尾崎をおそれるあまりひどい精神状態へと追い詰められていたことを明確にしたいという思惑による質問だったのかもしれない。尾崎の支配下に置かれたみのりが、いかにまともな判断力を失っていたかをはっきりさせる必要があったのかもしれない。

「いろいろな事情」を推察してもなお、あのとき逃げなかった自分が責められているようで、息がうまく吐けなくなった。
検察事務官というのだろうか、脇机の前に姿勢よく座ったスーツ姿の女性がみのりを心配そうに見ていた。

そんななか、できるだけ正確に、細部までわたって当日の自分を思い起こしながら質問に答え続けて、帰ってきた。
緊迫した状況を反芻した疲れと、わかってもらえているのかいないのか確信が持てない脱力感とで、コーヒーの味もよくわからなくなっていた。わたしが今日してきた質疑応答は、なんだったんだろう。あれは、どこを目指しているんだろう。

今、目の前にいる岡田は、意外そうな顔をした。

「佐山さんでもそういうことがあるんですね。いつもにこにこしてるから。御社に来てしばらく経ちますけど、佐山さんがそういう表情するのを初めて見ました。まあ、管理課と情報システム課は少し離れてるから、しょっちゅう見てるわけではないですが」

それは、と声を大きくしたくなった。顔に笑顔を張りつかせていたのは、誰からも後ろ指をさされたくなかったからだ。「おかしな事件に遭ったのは、自分に非があったからじゃないのか」。そう言ってとがめそうな人間は、どこにでも潜んでいる気がした。
わたしは悪くない。笑え、わたし。心底からの叫びをポジティブな仮面に仕立てたものが、仕事用の笑顔だった。

「あれは、仕事ですから」

力なくコーヒーを口もとに運ぶみのりを見て、岡田がまた言葉を続ける。

「まあ、みんなきっといろいろあるんですよね。なんか、安心した」

なぜ彼が安心するのだろう、と考える。
誰もが羨む外資系大企業に勤めていて、遠野由貴とおのゆきの言うところによれば「さっすが仕事ができ」て、ハンサムというわけではないかもしれないが悪いとは決して言えない容姿と押しつけがましくない明朗さを備えていて。
そんな彼が地味な事務員の疲れ顔を見て安心することのほうが、みのりには不思議だった。

立ち入ったことを聞くのは不躾ぶしつけだろうと思い、岡田が広げた書籍に目をやりながら聞いてみた。

「いつも英語の勉強されてますね。やっぱり外資系だと英語、必要なんですね」

岡田がうんざりした表情を見せる。

「次の昇格試験には英語の小論文とスピーチが必須なんです。これをパスしなきゃ社内で昇格しないので、給料も上がらない。でも、嫌だなあ、英語は苦手なんですよ。学校の成績も悪かったし。やる気が起きない」

そう言いながらも笑っている。向かって右の口角がきゅっと上がる。

みのりはなぜか、子どもの頃、祖母の家に泊まったときに使わせてもらったタオルケットを思い出した。孫たちが泊まりに来るからと、昼間のうちに祖母が干しておいてくれたタオルケットは、香ばしい茶葉のような匂いがした。
洗濯物の外干しを嫌う母が、乾燥機しか使わなくなってもう20年近く経つ。みのりにとって祖母のタオルケットは太陽の明るさと優しさを集めた存在だった。
もちろん、岡田のほうに身を寄せたわけではないので香りがわかるわけではない。けれど、その笑顔は祖母のタオルケットを思い起こさせた。

ショートサイズのコーヒーを飲み干してしまうまでのあいだ、みのりは岡田と会話を続けた。

岡田がみのりより2歳年上で、スノーボードと釣りが好きだとか、学生時代、カナダのウィスラーに行ったときに英語が全然通じなくて困ったとか、それなのに外資系大企業に就職が決まってどれほど焦ったかとかいう話を聞いているうちに、午後のどんよりした疲れは薄れていった。
誰かとたわいのない話をするのは、ずいぶん久しぶりのように思えた。

みのりが席を立つとき、岡田が「携帯番号とかは聞きません。ナンパじゃないんで」といたずらっぽく笑った。

みのりも笑って答えた。

「わたしもお伝えしません。いろいろあるので。お先に失礼します!」

事件に遭ってから、誰かに連絡先を教えるのがおそろしく感じられるようになっていた。実際、あれから誰にも電話番号やメールアドレスを教えていない。閲覧用につくっていたブログサービスアカウントも、すべて削除した。
家族や限られた友人、会社内では由貴くらいしか、連絡を取れる相手はいなくなってしまったけれど、それでいい。

あかつき新町駅で電車を降りられないのと同じように、新しい交友関係をつくるのが難しくなっていることに最近気づいた。

ここにも、あそこにも。
事件がみのりの心に残したものは、ときどき思いもよらないところに現れ、その数も案外多かった。

(第5話につづく)

『レスポワールで会いましょう』全話一覧

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第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

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第9話

第10話

第11話

最終話

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