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ドーサ【2】 崩壊するヘルシー概念と重い軽食

インド食器屋「アジアハンター」の店主・小林真樹さんが、食器買い付けの旅や国内の専門店巡りで出会った美味しい料理、お店、そしてインドの食文化をご紹介します。




前項のとおり、タミル人は米をパッチャ・アルシー(生米)とプルンガル・アルシー(パーボイルド米)とに区分けし、食べ方もそれぞれ変えている。それは単に好みというより、もっと深く宗教的な概念と結びついているように感じる。

大衆食堂のミールスとしてワシワシと食べられるのはプルンガル米の方である。一方、日本米と同様(パーボイルド加工しない)パッチャ米をワシワシ食べるのは「消化によくない」のだとタミル人はいう。確かにパーボイルド米はもみの中で米粒がぬかによってコーティングされるのでパッチャ米より栄養価が高いとされ、消化吸収がゆっくりであるため血糖値の上昇も穏やか。さらに腹持ちもよく、農作業などの肉体労働に最適だとされている。そのイメージが増幅され、中には「免疫力を高める」といった説をとなえるタミル人もいる。

収穫されたタミルの新米
収穫されたタミルの新米


一方、パーボイルド加工していないパッチャ米であっても「消化上問題ない」食べ方がある。それがドーサやイドゥリ、ポンガルなどにして食べる方法である。浸水して石臼で挽くなどして米粒が見えなくなるよう加工すれば消化上問題ないとされている。

インド人の食を考える時、この「消化によいかどうか」が割と重要な基準となる。消化とはつまり食べ物からの栄養素がきちんと体内に吸収出来たかどうかであり、消化不良をおこして体外に排出されてしまうことは最も避けなければならない。この考え方が根底にあり、ドーサやイドゥリといったパッチャ米を混ぜた料理でも米粒が見えなくなるまで加工すれば消化不良をおこさずきちんと体内に吸収出来ると考えられている(逆に、パッチャ米だけを茹でて昼のライスとして食べるのは「消化によくない」というタミル人は多い)。

このドーサやイドゥリはカテゴリー上、軽食(ティファン)に分類される。実際に茹でてライスにして食べるごはんと、ドーサやイドゥリに加工して食べるごはんとカロリー的にはさほど変わらず、むしろ軽いか重いかの差は単に食べる量によって左右されるはずだが、やはり朝と晩はドーサで「軽く」済ませたい人が多い。これは日本人のパン食・ごはん食に対する考えと似ているかもしれない。昼は定食を食べる人でも「朝は軽くパンで」という人は多い。しかしタミル人にとって「軽く」食べられるはずのドーサは油が多用されていて、さほど軽さは感じないのだが、この感じ方に地域差、文化差が出るのだろう。

タミルには「消化によくない」パッチャ米を日々の常食としなければならない人々がいる。タミル・ブラーフミン(バラモン)と呼ばれる人々である。彼らは司祭職という立場上、人間界では最も神様に近い存在とされている。(宗派にもよるが)基本的にヒンドゥー教では神様には日々儀礼を捧げ、まるで相手が生きているかのように食事も食べさせなければならない。この神様に捧げる食事を「ネイヴェダム」と呼ぶ。ネイヴェダムを神様に食べていただいたあと、その食べ残しを人間たちはありがたくいただく。この神様の食べ残しを「プラサーダム」という。

タミルの小さな祠に捧げられたネイヴェダム
タミルの小さな祠に捧げられたネイヴェダム


ネイヴェダムを調理する過程で注意しなければならないことがある。それは「決して味見をしてはならない」ということである。崇高なる存在である神様は、食べ残す側の存在であって人間の食べ残しを与えられる存在ではない。しかし万が一、調理途中で味見をしてしまった場合、それは「人間の食べ残しを与える行為」と見なされてしまうのである。だから調理途中で味見しないし、子供が何気なくつまみ食いしてしまったような場合はネイヴェダムとしての価値が無に帰すため、最初から作り直さなければならなくなる。

実はプルンガル米についても同じことがいえる。プルンガル米とは人間が食べる際に、消化しやすいよう、あるいはよく栄養がとれるように人為的に加工された米と解釈出来る。この「神前に供えられる前の人為的な加工」は、ヒンドゥー教的には不純とみなされる。神々に捧げられる食べものは、人間という不純な媒介を通さず、よりダイレクトに自然な素材とつながらなければならない。だから神々に捧げる供物にはパッチャ米を使う必要があり、神々に最も近いとされるブラーフミンたちもまた、パッチャ米を摂取しなければならないのだ。

タミルのミールスには通常、プルンガル米が使われる
タミルのミールスには通常、プルンガル米が使われる


これは推測だが、プルンガル米はぬかによってコーティングされているので全体が黄色味を帯びている。ヒンドゥー教的価値観では純白に近いものが好まれるため、米もまた、より白いパッチャ米が好まれるのかもしれない。

ダイレクトに自然素材とつながるという点では、例えば供物を載せるバナナの葉も同様で、祭壇に載せるために葉をむやみに裁断加工すべきではない。神にささげるのであれば、バナナの葉は一枚ものの、無裁断のものが望ましい。果物もまた、皮をむいたり一口サイズにカットするのはよろしくなく、ホールのままお供えしなければならない。もちろんこうした宗教上の規定に科学的根拠はない。ただそれが食材の選択からサーブのし方、食べる方法から食器に至るまで、広く現代のインド食文化に影響を与えているのもまた事実なのである。







著者小林真樹さん近景

小林真樹
インド料理をこよなく愛する元バックパッカーであり、インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。買い付けの旅も含め、インド渡航は数えきれない。商売を通じて国内のインド料理店とも深く関わる。
著作『食べ歩くインド(北・東編/南・西編)』旅行人『日本のインド・ネパール料理店』阿佐ヶ谷書院
アジアハンター
http://www.asiahunter.com

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