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ミラノの市

 土曜の朝、ミラノ市中にたった市で、野菜を買うために並んでいた。
 2020年の暮れに京都からパリへ戻り、今年の初めに家族でミラノへ越したばかりの友人のティナは、週に二回立つ市の中に既にお気に入りのスタンドを見つけていた。新鮮ないい野菜が揃うその売り場は、当然ティナ意外もひいきにしている人たちがいるわけで、常時二十人ほどの人が列をなして順番を待っている。


 混んでいてもなんのその、店員たちは自分たちのペースで働く。手慣れているし、手際が悪いわけではない。馴染みの顔が現れればあいさつと簡単な世間話。客が指差す野菜を小走りするでもなく、あわてる訳でもなく広い売り場を回って袋にいれる。そしてお会計。時間のない人やしびれをきらした人がぱらぱらと離脱していくが、それでも多くは傘を差してしんぼう強く待っている。ティナと一つの傘に収まっていると、子供の泣き声が聞こえる。振り返ると列の後ろの方で、生後間もない赤ん坊を父親があやしている。「生まれたてだね」「人生初の市場かもね」と私。「歴史的瞬間に立ち会っているね」とティナ。


 花つきのズッキーニ、赤や黄、濃い血の色のようなトマト、沢山の種類の葉野菜。そろそろ終わるシチリア産の桃と、初物のイチジクが季節の移り変わりを告げている。次々に売れ、そして追加の野菜や果物もどんどん運ばれてくる。

 野菜の次はハムやチーズを扱う屋台。移動式のトラックの荷台部分がショーケースになっていて、産地の違う、沢山のチーズやハムが陳列され、またぶらさがっている。3、4人待ちの列が2列に分かれ、そう長くはかからないかと思いきや、結局45分くらい待った。一人のおばあさんがハムを指差し、それを白衣姿で老年の店主らしき男性がそろそろと切り分け、手渡す。味見をして、うなずいたらお買い上げ。いろいろなものをちょこちょこと、延々とそれが続く。前に並んでいた家族が「まだかかるの」と言いたげな表情でこちらを振り返るも、結局その家族の時も同じくらい時間かけて買い物をしていた。ここではスピードアップやショートカットは期待できない。

 その日は今年初めて秋がやってきたような日で、シトシト雨が降り続き、足元から冷え込んだ。美味いものを手に入れるには、忍耐がいる。スタンドには常時4〜5人の店員が、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。先述の白衣の店主は背が高く、後になでつけた髪は銀色で、鷲鼻の顔には深いシワがきざまれていた。ハムを切り分ける時の目つきは鋭く、長い指を持つしわのいった手からは熟練の誇りを感じさせる。それは単に食品を売る人ではない。商品に関する確かな知識を持ち、自分たちの売るものに誇りを持つ、職業人の振る舞いだ。その態度には卑屈なところは一切なく、招待客をもてなす館の主のように実に悠然としている。


 待っている間ティナに、日本にはイタリア料理の料理人が結構いるが、一度もイタリアに行ったことがない人が一定数いる、という話をする。こんなところで延々と待っているティナからは当然、「この景色を見ずにしてイタリアンのシェフだと言えるのか」という反応が返ってくる。私も当然同感だ。色々な考え方があり、これは私の考えなのだが、料理というのは単なるレシピでなく文化だ。地元や国産の新鮮な野菜、魚、まぜものの入っていない様々な地域のハムやチーズ、その他鳥の丸焼き、オリーブや魚のオイル漬け、酢漬け…そういうものが集まって、それを求めて市にやってくる人々。効率よりも自分のペースを重視した接客、そのことを折込ずみの客。市だけでない、通りへ出れば、驚くほど手際のいいバール(カフェ) のバリスタたち。そこで繰り広げられる、常連とのやりとり。テラス席に溢れる人々。レストランの活気、にぎやかさ。その間を縫って回る、堂々たる給仕たち。そういうものは全てイタリアンの中に含まれていて、私自身はそれが大好きだ。美食に出会うことに匹敵する、心踊る体験だ。色々な食材が、日本でも手に入るが、この雰囲気は日本に連れてくることができない。


 その夜から翌週にかけ、土曜の朝いっぱいかけて並んだ戦利品を堪能した。
 アペリティーボ(食前酒)とともに出される、数種類のハム、チーズ。目が冴えるほどの青さとフレッシュな風味の大粒のオリーブ。トマトとモッツァレラのサラダ。ゴルゴンゾーラをさっとからめたパスタ。新鮮な葉野菜にクレマ(とろっとして甘味の強いバルサミコ)をかけたサラダ。グリーン、ブルー、黄、どれも味が違う食後の色とりどりのプルーン。日々の合間につまむ、赤と白のブドウetc…. 市場に行っただけのことはある。一週間、我々ははずっとハッピーだった。きっとまた次の土曜日には、みんな市場へでかけていくだろう。


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