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良い気の迷い (月曜日の図書館154)

閉館後の見回りを終え、エレベータで地下まで降りていく。扉が開くと、目の前に鬼婆が立っていた。当然電気のスイッチは全部切っているので、周囲は真っ暗だ。落ち窪んだ大きい眼、逆立っているボサボサの髪。

気絶しようと思った。でも、万が一ただの人間だったらものすごく失礼だと思い、持ち堪えた。

すると鬼婆は、すいません売上の集計が遅くなっちゃって、と言った。地下にある飲食店のパートさんなのだった。お店の奥で作業していたらしく、すでに帰ったとわたしが勘違いしてしまったのだ。

すばやく笑顔を作り、わたしの方こそ電気消しちゃってすみません、と言った。気絶しなくて本当によかった。

緊急事態が発生したとき、どう行動しようか迷って動けないことが多い。それが凶と出て利用者同士の喧嘩を止められなかったこともあるし、今回のようにギリギリ踏みとどまれることもある。

もしも空から爆弾が落ちてきたら、ちゃんと逃げられるのか、お腹を刺されたら泣きわめけるのか、いまいち自信がない。

昼間、小さい子どもが自分たちだけでやってきて、フロアを駆け回る。親は別のフロアにいるらしい。姉と思われる子どもが、弟と思われる子どもに後ろから抱きついて、頭をこねくりまわしている。弟はこねくられながら、声を上げて笑っている。図書館に来てこんなに楽しそうにしている人間を久しぶりに見た。

そのうち、姉は弟の足をつかんで引きずりはじめた。注意した方がいいだろうか。でも弟は相変わらず奇声を発して喜んでいる。これは彼らならではのスキンシップなのか。じゃれるライオンの赤ちゃんみたいだ。弟は靴をはいておらず、足の裏が真っ黒になっている。

近くにいるわたしが静観していると、N藤くんがすかさずやってきて、あんまり引きずっちゃだめだよ、と言った。ふたりはニコニコしながら階段を降りていった。

もう少し見ていたかったなあ。

休館日に書庫の蔵書点検をしていると、館内を見学していた経理の人たちが通りがかった。熱心に作業している人を演出する。課長が今やどこの図書館もICタグ管理なんですけどね、うちはお金がないからこうやって手作業してるんです、と説明していた。お金がない、に特に力が入っていた。

本についているバーコードを、ハンドスキャナで一冊一冊読み込んでいく。わたしはこの作業がとても遅い。今日も自分の分を終えたT野さんが途中から手伝ってくれた。

近くで作業しているとき、T野さんはわたしの手元を見て、そっか、左利きだからやりづらいんだよ、と言った。バーコードは本の右側についているため、どうしてもスキャナを右手で持たなくてはいけない。慣れない動きをするのだから、人より遅くて当然なのだった。

言われるまで全然気づかなかった。最初からこの体勢でやっていたから、やりづらいとも、左ならもっと早くできるのにとも思ったことがなかった。蔵書点検に関しては、ただただ右手で読み取り、遅い分を他の人に手伝ってもらう、それ以上でも以下でもなかった。

本当はもっとあるかもしれない。自分の能力が劣っていると思い込んでいるけれど、ただ社会の型が自分に合わないだけということが。わたしだけでなく、たぶん誰にでも。

マジョリティのことしか考えてない証拠だなあ、とT野さんは言った。わたしはとっさに何と答えたらよいかわからなくてただあいまいに笑った。お腹がくすぐったくなった。

経理の人がお金をもっと図書館に配分してくれたら、ICタグに切り替えて、利き手の問題は解決する。どうして急に見学にきたか、最後まで理由を言わなかったらしい。貴重書庫を案内したらめちゃくちゃ嬉しそうだったよ、と課長が言う。あれが演技だったら相当やばいよ。

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