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『愛する』能力

今フロムの『愛するということ』を読んでいる。

愛する能力というのは人間の成熟が必要ということだ。とても良く分かる。

この本では愛することを具体的な行動として定義している。例えば植物を愛しているという人が植物の特性を学ばずに、水も良い土も与えないとしたら、その人は植物を愛しているとは言えないと書いてあった。

例えば、親が子供に怒りの感情を覚えたとする。子供がぐずったりしてイライラしてしまうのは仕方ないとして、その罰として例えば食事を与えない、とか酷い体罰とか、子供の安全を脅かすようなやり方では、子供を愛することができるまで人間として成熟していないんだと思う。

怒っている、イライラする、でも非力な子供がスクスクと育つようにお世話をすることと苛立った感情とは別とハッキリ体感して初めて子供を愛していると言えるのではないかな。

昨日ちょうど本を読んでいる時に、犬が3匹で家中を駆け回って遊んでて、聞いたことのない吠え方をしたので、怪我をしたかと驚いて、助けるために咄嗟に駆けようとして前に大きく転倒してしまった。

左足を骨折しているのに、体重をかけてしまって、足が使えずに転倒したのだ。痛かった。

犬たちは私が転倒して痛さで呻いているのを聞きつけて、様子を見にやってきた。

犬たちを見ると幸い怪我も何もしていない。

私は八つ当たりと分かっていながら、犬たちに腹が立ってしまった。

飼い主が足を骨折して大変な時に騒いで走り回って大声を出して。また転んでもっと怪我したらどうするの?! と、犬には分からないようなことで怒りが湧いた。

少しの間腹が立っていたが、犬たちはそれも知らずに嬉々として私のあとをチョコチョコついてくる。

ご飯の時間が近かった。

そうだ、犬たちのご飯を作らなくては。

怒っているからと言って、犬にご飯を与えないとか、犬に暴力や暴言を吐くとか、犬の大切なものを取り上げるとか、犬の存在自体を脅かすようなことをしたり言ったりするわけがない。

一時的な感情で愛する存在にそんなことをしたとしたら、本末転倒もいいところだ。

相手にとって大切なのは何か? 自分にとって大切なのは何か?

一時的なイライラを相手にぶつけて自分がスッキリすることが、相手が健やかに生きることよりも大切なのか。

その時に、”I am angry at you but I love you still the same”と言うのがどう言う感じなのか明確に分かっている自分に気付いた。

一時的にムカついたからと言って、私の犬たちへの愛、つまり元気で健やかに一緒に暮らしを楽しみたいと願い、行動する姿勢に一切変わりない。

当たり前のことだけど、自分が成長したから当たり前と分かるんだと思う。ありがたいことだ。

というのも…。私がまだ保育園に行くか行かないかの頃、ぐずっている私に腹を立てた母は、私を抱き上げてお尻を叩いても腹の虫が収まらなかったらしく、農家だった自宅の納屋に連れて行って「大蛇がいるから食われるからな」と言って暗闇の中に私を閉じ込めてしばらくドアを開けなかったことが何度かある。

あの時の恐怖は大人になってからは体験したことがない。

私は自分の背後に大蛇が潜んでいて今にも私を飲み込んでしまうと信じて恐怖に泣き叫んで助けを呼んだけど、来なかった。

あんなお仕置きをした母は本当に酷いと思う。あれが私の人間関係の不信の根底にあると言っても過言ではないくらい酷い体験だった。

母は忘れているかも知れないし、私の安全神話を揺るがすような大きな出来事だったとは知らないだろう。

その時の母親は人間として未熟すぎて、怒りの感情に支配されて、子供を愛することと一時的に怒ってしまうことの違いが全くもって分からなかったんだと思う。

そして、母娘の間に育ったであろう信頼関係を損なって、娘からの愛情を得られなかった。当然だと思う。

血縁関係といっても、愛情をかけたから愛情が育まれるのであって、愛がないところには愛は育たない。

感情に振り回されて、大切なものを見失うことで支払う代償は大きい。

私も若い頃は大切な人に対して怒りと愛の区別をつけることができなかった。だから大切な人たちと良好な関係を継続して築くことができなかった。

移り変わる感情の揺れと、誰か何かを「愛すること」とは根本的には違うと言うことって、ハッキリとは分かったのはいつ頃だったんだろう。

怒ると対象は関係なく徹底的に攻撃してしまう自分がいた。若い頃の両親とそっくりだ。

今となっては、感情は波のようなもので、愛することというのは本来なら深海のようなものなんだと理解している。

母は24歳で姉を産んでいる。私は46歳で、社会に出て2度の移民をして、人生経験を積んでいるし、心理カウンセリングにも通えたし、色んなセラピーを試すことができる恵まれた立場にあった。

今の自分でやっと分かったことを、半世紀前の未熟な母に求めても、無理というものだ。もうちょっとどうにかならなかったかと思ったりするけど、起こったことは取り返せない。

若い頃の母に対しては、心底残酷だな、よくやってくれたよな、と非難する気持ちもあるが、それよりも私はそういうところから出発して、今ここにいるという自覚をすることで、地に足をつけるようにしている。

つまり、自分は特別に良くもなければ特別に悪いと言うこともないんだと理解するに至っている。

子供を持たなかったので虐待の連鎖も起こしてないし。

自分ではまずまずの成長を刻んでいるんだろう。



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