悔しさの釘

こんにちは、ももです。
思考がまとまらないので吐き出すだけです。

これまで生きてきて―――と言っても、わたしはたかがたかたが34年しか生きていない小賢しいクソガキですが―――色々な「悔しい」ことがありました。
わたしが「悔しい」と認識する物事……それは後悔とも呼べそうだし、妬み嫉みと言っても差し支えないかと思いました。でもきっとこれは「悔しい」と呼べばいちばん適切なのではないかと思い、タイトルや出だしの通りとしました。

五体満足でお金にも大して困らない恵まれた環境にいるくせに、努力できない自分が悔しい。生温い毎日に腑抜けて、苦しい道を歩かない自分が情けない。そうやって自分自身の不甲斐なさを一丁前に嘆くくせに、実際にはなんの行動にも移さない、ポーズだけの自分がものすごく気持ち悪い。このような醜態を晒して、限りある(減っていく一方である)時間を食い潰すだけの体たらくならば、まだ昔の自分のほうがギラギラとして、ましだった。
JKの時分のわたしが、今のわたしを見たら、きっと酷く失望して、カミソリで切り掛かってくることでしょう。
わたしが自傷行為(ボディ・カット)を始めたのは16才の時でした。理由は複合的なものでした。
自分という人間に絶望したから。死のうとしたけど、意気地が無くできなかったから。自殺できなかったショックで。自分のことが殺したいほど嫌いだったから。自分が存在することが許せなかったから。生まれてきた罰として。ほかの誰もわたしを罰してくれないから。死にたくなかったから。生きるため。学校に行くため。
こんな感じの理由でわたしは自分の身体をカミソリで切っていました。首の皮膚を切るのが、いちばん拍動を感じましたね。そんな風に生にしがみついてギラギラしている16才のわたしの目にはきっと、今のわたしは、ひどいように映るのでしょうね。ブチ切れられて殺されるかもしれません。もしくは彼女は「わたしの未来がこんななら、いつ死んでも同じことだ!!」と言って、今度こそ死んでしまうかもしれないですね。まあ所詮わたしなので、彼女にもそんな勇気は無いと思いますが。

実父があんな風に亡くなったことを、6年経った今も乗り越えられないことが悔しい。あの事故で、本当に「死ぬほど」つらい思いをしたのは他の誰でもない父なのに、わたしは、父が亡くなったことで自分の夢が潰えたことを嘆いている親不孝者です、それが悔しい。
わたしの夢は、父の夢を叶えることでした。父の夢は、わたしの花嫁姿を見ることでした、孫を抱くことも。それを!!ぜんぶ!!ぶち壊した。相手の運転手の苦悩とか知らん。そんなものはこちらの知ったことではない。その代わり、向こうもこちらの苦しみを知らなくてよい。知らなくてよい。それを認知されたところで、父は帰ってこないし、今や粉々の夢という夢がよみがえることもない。

わたしが尊敬する英語学習者のかたが「障害があっても引きこもりでも大丈夫。努力すれば報われる」というような発信をしているのを見かけた時、わたしの頭は怒りに白く灼けた。それが悔しかった。
その方も鬱でカウンセリングに通っていたところ、カウンセラーのかたに「英語やってみれば?」と言われ勉強開始してもう10年も毎日勉強し、本当に凄いかたで、わたしはその方自身を悪く思いたくはないし尊敬しているのも事実。
でも「努力すれば報われる」みたいな発言に関してはわたしはどうしても許容できない。わたしの持論では、努力は別に報われはしない。その努力とやらが報われるかどうかを決めるのは運に他ならない。
『たまたま』運が良くて努力が報われた成功者サマには、わたしのような徳の無い下衆の言うことは理解できないだろう。しかし言わせてもらいたい、あなたがた成功者を成功者足らしめた要因は、『たまたま』運が良かった、というただ一つ、これだけだ。
『たまたま』運が良くて、自分が輝けるキッカケと出会えた。『たまたま』運が良くて、平穏無事な10年が流れ、学習を続けられた。『たまたま』鬱が軽く、勉強するだけの元気があった。『たまたま』現代日本で英語はまだ外国語の域を出ない言語である。
そういう幸運の重なりの上にあなたの成功はあるのに、それをなにを履き違えたか知らないが「努力は報われる」?笑わさないでほしい。じゃあ父はどうしてあんなふうに死んだんですか。あんなにリハビリもがんばって懸命に生きていたのに。わたしは祖母と実母の入っていた宗教の人に連れられ、街を練り歩きながら御神楽歌を歌わされたり、東京の某駅前で神様の話を大声で朗読させられたりしました、でもそれはわたしも望んでやったことでした、父が助かるなら何でもすると。報われませんでしたね。じゃあ父の懸命に生きた姿も、片道クルマで8時間かけて神様の居る神殿まで行って朝の5時から祈った日も、何もかも、なにもかもが、努力ではなかったとあなたは言うんですか?
完全に八つ当たりだなんて解っています。本当に申し訳ない。その方を尊敬する人間のひとりとしてわたしは疾うに失格ですね。(念の為、わたしはその方のことは尊敬していますし好きですが、その方のお言葉というか言い方?が気に食わなかっただけです。わたしは人と物事を区別して評価するタイプなので、人は好きだけど、この言動は嫌い、とかそういうのが成立するタイプです。)
そういうことを考えてしまう自分のことが、やっぱり、悔しかったんです。人が何をどう言おうが自由、わたしがその人から見えないところで、わたし自身の心の弱さ・人間としての未熟さを嘆くのも自由、そうでしょう。

あーあ

たまたま幸運なだけの人々が、それをそうと気付く頭も無く、のうのうと生きている。

それがゆるせない、
わたしをゆるせない。

わたしの人生は、皆さんの目にどう映りますか?きっと、ご自分の人生のほうが大変だとお思いのことでしょう。おまえの人生なんて、なんでもない。君の人生、なんにもないね。と。
そうですよね。

わたしも別に、誰かに認めてもらいたいわけじゃないので、嘘は要りません。いえ、厳密に言うと、わたしは誰かに認めてもらいたい。でもそれは、わたし自身がわたしの人生を認めてあげられないから、その穴埋めとして、誰かから認めてもらいたいだけ。そして、たとい誰かから認められたとて、それでは埋まらない。そんなことももう、とっくに解っています。

わたしは、自分で自分の人生を認めたい。他の誰でもないわたしが、わたしの人生を認めたい。わたしの存在自体を、わたしがここにいる事実を、わたし自身で認めてあげたい。
でもそれは今のわたしにはできない。だからここにズラズラ書いて吐き出しているんですね。

わたしの心に突き刺さっている
この悔しさの釘たち

抜いたほうがよいだろうと思いますが、
抜いてはならない気もするのです。

長くなりました。
ありがとうございました。

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