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日本史のよくある質問 その15 「荘園」とは?⑤

前回の記事では、延喜の荘園整理令による改革、そして田堵による「名」の経営について触れてきました。

田堵による「名」の経営は、基本的には国家管理の土地の委託管理であり、それは私有地とは明らかに異なるものでした。
しかし、田堵たちは公民からのし上がった筋金入りのやり手経営者たち。
唯々諾々とそんな下働きだけを続けるとは思えません。

では、田堵たちは「名」の経営以外にどんなことをしていたのか…今回はその点に触れていきたいと思います。

というわけで、今回のテーマは…

③私領の形成 「開発領主」の台頭

です。

前回までも記事でも触れましたが、朝廷や国司たちは、現実に即した柔軟な政策をとっていました。
戸籍や計帳の乱れもあり、班田制が維持できないと見るや、奴婢を抱える有力農民であった「田堵」に公田の徴税を委託することで税収維持を図ったのです。

しかしこれはあくまでも為政者側の都合です。
田堵にとって、請負生産は、「うまみ」はないわけではありませんが、税負担など、面倒なことも多くあります。
しかも、担当する名が度々変わるという点もちょっと面倒です。
そうなれば、「他人から干渉されない自分の土地を持ちたい」と考えるようになるのは、ごく自然なことですね。

そのようなわけで、「名」の経営と同時並行で、田堵…さらに、それに近い立場にある地方の有力者たちは、独自の方法で私有地の獲得を試みます。


しかし、「私有地を合法的に」を獲得する道のりは容易ではありません。
まず、土地を国に私財として認めてもらうための手続きが必要です。
当時、国にこのような認可を受けるには大きく分けて2つの方法がありました。

・官省符による認可を受ける
・公験による認可を受ける

官省符による認可は、中央貴族や大寺院しか受けられないもの(一般的に「荘園」としてイメージされるのはこちら)です。
一方、公験というのは、小規模な墾田(開墾地)に対して国司などが行う認可のことで、こちらは地方の有力者でも得ることができました。

公験を受け、地方の有力者による事実上の私有地となった耕地を「私領」といいます。私領は、「官物」という税を払う必要はありましたが、それ以外の管理については原則として領主に一任されていました。
イメージとしては初期荘園に近いですね。

当初、国司は私領の拡大をよしとしませんでした。それは、以前にも繰り返されていますが、私有地の拡大を容認すると、いずれ公田(国有地)を侵食する可能性が高かったからです。
しかし、政治的・経済的な情勢の変化がこの方針を徐々に転換させていきます。それは

国司の権限強化
気候の変化(温暖化)

です。
当時、地方を統括していたのは「国司」です。
今でいう県知事のようなイメージですね。
ただ、当初の国司は都の貴族出身で、朝廷(中央政府)の命令に従って任地の管理をすることが主な仕事でした。実際の徴税など地方行政の中心は「郡司」という地方の有力者たち(元豪族など)でした。

しかし、戸籍や計帳の乱れで、朝廷による一括管理が難しくなると、朝廷は国司に徴税業務を「丸投げ」します。
国司に朝廷への納税のノルマを課し、それを達成すれば統治に関してはお任せ!ということで、国司が独自に行使できる権限を強化したのです。
権限が強まった国司は、郡司たちを部下として取り込み、任地の支配を強化していきます。
(これが、後の「受領」を生み出します)

しかも同じころ、気候が徐々に変動を起こします。
当時の記録を見ると、多雨、旱魃などの異常気象、そして疫病や虫害の発生など、温暖化の影響と思われる現象が多発しています。
この状況は、田地が放棄され、耕作されなくなるリスクが上がります。
こうなると、国司は納税ノルマを達成するためにもっと田堵たちに頑張ってもらわなくてはなりません。
多少のリスクを負ってでも、田堵たちに積極的に田地を開墾・維持してもらった方が得策、と判断したんですね。

ところで、このような私領はどこかにまとまって形成されたとは限りません。
田堵は名の請負耕作も行っています。人手には限りがありますから、請負地の近くで新たに開墾をした方が得策です。灌漑設備も流用できますし…。
実際に、このような私領は「名」の間に入り込むようにして広がっているケースが多々あります。
これが、将来的に「荘園の権利関係が複雑に入り組んでいる」一つの原因になっていくのですが…。

ちなみに、高校日本史的に言えば「私領=私営田」とほぼ同じ意味です。

ところでこの私領、よく考えると大きなリスクが存在します。それは

基本的に国司による認可

である、という点です。
なぜそれがリスクなのか?というと…

国司が代わると、認可を取り直さなくてはならない

からです。
取り直しに失敗すれば、私領は国司によって没収されてしまいます。
勿論、在任中の国司との関係が悪化すれば、認可が取り消しになる危険性もありました。
このリスクを軽減する方法は…

国司とひたすら仲良くなる
国司より偉い人に自分の後ろ盾になってもらう

といったところでしょうか。

実は、私領を形成していた人々を見ると、現地の有力者ではない人も多く見かけます。
下級貴族、僧侶、商人などが、元々の出身地を離れて、国司との人間関係を足がかりに田地の開発に参加するケースもありました。
これらの、田地の開発に参加し、私領を形成した人々のことを総称して「開発領主」といいます。

開発領主たちは、この私領をどのように維持していくのか…。
ここから先は、「荘園」の絵としてはイメージのわきやすい、藤原家などが支配する「中世荘園」に入っていきます。
イメージはわきやすいのですが、その内情が複雑…。
次回は、その辺りを少し、紐解いてみたいと思います。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

(追記)
日本史では、難解な用語などもあります。解説や読み替えなどを書き加えているつもりなのですが、もし「この単語の意味が分からない!」などあればコメント欄でお気軽にご指摘ください<m(__)m>
そのようなご指摘に対して加筆修正(記事のアップグレード)ができるのも、Noteの良いところだと思っています。

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