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自衛するための怒り

2022年7月15日(金)

久しぶりに子供たちのことで小学校へと出向いたら、ちょっとだけ迷った。ほんのちょっとだけだし、誰も居ない校舎だし、恥ずかしさみたいなものは無かったけれど、自分の「学校」という場所に対する嫌悪感が脳に刺激を与えていて、無意識のうちに校舎の配置を覚えないようにしているのだろうか?と考えたら恐ろしくなった。


2022年7月16日(土)

今年初のプールへと出かけた。暑さはそこまでではないせいなのか、それとも最近の感染状況なのか、人はまばらで(たんに人気のないプールだったのかも)、人の多さにグッタリしてしまう私にはとても助かる状況だった。

少しだけ潜れるようになった息子は楽しそうにしていて、まったく泳げない娘にとっては苦行のようでもあり険しい顔も何度か見られたけれど、それでも鼻歌のようなものが出たりして楽しい時間を過ごしていたようで安心した。

そんな二人を眺めながら泳げない私は足をつったり小指をぶつけて心の中で悶絶したりしつつも、しかし何気ない顔をして過ごせた。えらい。

「大人は何があっても、何気なく振る舞うこと」を求められているような気がしていて、だから痛くても「痛ーーーーっ!!」とか「ギャーっ」とか言わないように心がけているのだけど、それは本当に必要なことなのか、痛い時は痛いと言うことが必要なんじゃないか、とも思っていて、結局私は何が言いたかったのか、ここまで書いてきて見失ってしまったので、二日分の日記は唐突に終わり。

読んでいた本は『傘のさし方がわからない』

読み終わり、改めて良い本だと感じたのは、私自身が感じていたこと思っていたことを、奈美さんが文章にしてくれたお陰かもしれない、と思っていた。

わかってほしいけど、わかってもらえないと悲しみと怒りにかられて八つ当たりしているくらいが、ちょうど心地よかった。なにかに嘆いて、なにかに怒り続けている方が、自分は傷つかなくてすむ。

『傘のさし方がわからない』より引用

私はどうしてこんなにも怒りがくすぶっているんだろう?ずっとずっと心の中にある怒りはどうして消えないんだろう?
長いことそんな疑問が消えなくて、怒りをコントロールする本などを読んだりして解決策を見つけた気にもなりながら、しかしすぐに怒りに支配されてしまうから、怒りを抱えて生きるしかないと諦めていた。

今でもその諦めを抱えてはいるけれど、奈美さんの文章を読み、あぁそうか、私は傷つかないように怒っていたのかもしれないな、と気づいたら色んなことが腑に落ちた。

自衛するための怒りだったとしたら、それを無くしてしまうことに拒否反応が過剰に発動するだろうし、だから私の中の怒りは無くなったら困るものだったのかもしれない。

そう考えてみると、怒りを手放すことが出来なかった理由にようやくたどり着いた気がして、ものすごい安心感が胸にボワッ!!!と生まれた。

理由や原因を知ったからといって、すぐに怒りが消えるわけじゃない。これからも私は怒りを抱えて生きていくはずだもの。でもその怒りは自分を守るための行動なのか、と考えることが出来たら、何に傷つきたくないと思っているのかを知ることが出来るかもしれない。

もしも傷つきたくないものに気づくことが出来たら、私の怒りも別の形で消化させることが出来るかもしれない。

人生を歩いていくための、小さな杖のようなものを手に入れた感じで、心強さが増した。ありがとう、奈美さん。

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