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【読書日記】2021年10月24日

久しぶりに夫がいる日曜日。毎週子供たちを一人で相手にしていると、朝から限界を感じるけれど、今日は夫が居たので限界を感じたのはお昼だった。どっちにしても限界を感じてしまうことに変わりはないのだけど、それでも一人より二人のほうが心強く思えるような、二人だからこその意見の相違なんかもあって余計に面倒なような。どちらにしてもメリットデメリットはあるもので。

そんなこんなで今日の読書は『ヨルガオ殺人事件』。

まだ上巻の中盤にもいかない。8年前に起こった事件の真相を知るための話なのだけど、関わっている人が多すぎて、誰が誰だか分からないまま時は流れて。

特に主人公が一度に色んな人にメールを送るシーンなんて、これは誰だっけ?この人は何に関係してるんだっけ??と、物語と人物を照らし合わせていく作業にクラクラした。私の頭は推理小説に向いていないと、改めて感じた。でも好きなんだよね、推理小説。

本編とは全然関係ないけど、

自分の価値観で相手を値踏みしてしまうこともあるけれど、そんなときに下す評価は、相手よりもむしろ自分自身の姿を浮き彫りにしているのかもしれない。
『ヨルガオ殺人事件』より引用

この言葉にハッとした。

自分の価値観は人と違う。そこを本当の意味で理解するのは難しい。それは、多数がしていることを「普通」だと考えてしまうクセがあるからかもしれない。

けれどその「普通」ってなんなのか。少ない意見だから「普通じゃない」と切り捨てるのも違うはず。価値観は人それぞれ。言葉として使うことはあっても、本当にそう思っているかは別問題であり、私も多数の意見に従って生きているに過ぎないんだろう、深く考えることを止めてしまっているんだろう、なんてことを考えていた。

本を読んでいるとこうして考えてしまうこともあるけれど、大半は面倒だなと思って止めてしまうことが多い。深く突き詰めて考えれば考えるほど、自分自身の見たくなかった姿を見ることになるからだろうか、そうならないために「考えることは面倒だ」と理由をつけているだけかもしれない。

自分がどういう人間なのか、知りたいと思うし知っていれば対処できることも増えると思っているけれど、知ったからこそ幻滅する場面だってあるわけで、私はそこがとてもイヤだと思っていた。けれど今は、そうやって逃げていたって自分は自分だし、自分からは逃げられないんだものね、と変に諦めもある。

これは年齢を重ねたおかげかもしれない。人は慣れていく生き物だから、見たくない自分だって慣れていくのかもしれないな、それともただの諦めかな、なんて『ヨルガオ殺人事件』とは全く関係のないことを、ひたすらに考える夜を過ごした。疲れた。

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