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連載小説「戊辰鳥 後を濁さず」

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土木業界を離れることとなったため、今までの仕事の経験をもとに初めて小説を書きました。 全85話で完結。約55000字となりました。街から文学が生まれるのではなく、街づくり文学を目…
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《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第1話

あらすじ 戊辰鳥 後を濁さず ―つちのえたつとり あとをにごさず― 第一部「釜場」 三月十五日(金)  農家であり地主であるトキ家の跡取り娘として生まれた私は、二十歳の時、祖父の養子となり、祖父からボロアパートを一棟譲り受けた。  表向きはトキ家の血を絶やさないためとなっているが、実際は広大な土地を持つ祖父から相続を受けるためである。  医師が祖父に宣告したおおよそ三年後までに私は相続税として多額のキャッシュを用意しなければならない。そのため、ボロアパートを解体し、そ

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第2話

三月十六日(土)  調査開始。  地盤の調査は一週間程度かかる予定だが、玉石混じりの土の層が1m、関東ローム層という富士山の噴火でできた古い火山灰の層が2mの計3mを越えれば筒はスルスルと入っていくようだ。  この調査は、地盤の深さごとの強さを可視化した土質柱状図という図表を作るためにやる。  今説明した内容を図表にするとこんな形だ。  モグラが言っていたが、この調査は図表を作りながら、強さが50になる硬い地盤に辿り着くまで調べるらしい。  このあたりの地盤は地面から

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第3話

三月十七日(日)  湯が湧いた!  あっという間の出来事だ。  ドンッ!と一回、湯柱が上がり、ボーリングマシンはひっくり返った。  ジンベエザメは湯を身体中にかぶった。  私は衝撃音で体がビリビリしている。  湯柱は膝丈くらいの高さに落ち着いたが、幅が1mくらいに増して、ボコボコと音を立てている。  ジンベエザメは熱い熱いと言う。だが、服を脱ごうとしない。火傷の際は服を脱がずに冷やす。これが鉄則だ。だが、冷やす素振りはしない。熱い。熱い。これを繰り返している。  

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第4話

三月十八日(月)  市役所の職員が来た。なんでも道を500mくらい緩く下った先の信号で冠水が起きたらしい。  あそこはよく冠水する。大雨が降れば間違いなくだ。  辺り一面平地の中で一番低い場所に信号はある。東西南北十字の交差点となっていて、ぬるま湯は側溝の中を通って交差点に西側から接続する形だ。そこから先の流れは北にあるヒツジ川に向かうしかないのだが、この北ルートは農業用水路としての機能も持っていて用水の流れがそれと逆だ。今は用水の流れる時期ではないが一年中ほぼ満杯の側

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第5話

三月十九日(火)  四人来た。軽ワゴンに四人乗ってやってきた。四人目は環境対策課の職員だった。環境対策課とは、主に公害の監視、調査及び分析に関することの担当部署のようだ。そう挨拶して一枚の紙を渡してきた。 「水質成分分析表」  何やら馴染みのない化学物質であろうアルファベットがざっと二十項目くらい並んだ表だった。これは専門の調査機関に調査をお願いし、結果が出るまで二週間程度かかるらしく調査機関の紹介リストをくれた。 「とりあえず、今日調べられるのは、排水量とpHです。

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第6話

三月二十日(水)  ジンベエザメは七十過ぎの土木会社社長だ。  時折電話で手配をしているが今は母屋の縁側でぼーっとしている。シミだらけの肌が少し赤みを帯びているのはぬるま湯を被ったせいだが、セメントまみれで仕事してきた職人の肌だ。痛いそぶりは見せない。  モグラは以前、土木工事の現場監督をしていたようで、そこでモグラの下請け業者の親方として職人たちを束ねていたのがジンベエザメだったらしい。モグラには酷い扱いを受けたと言っているが、スナックに行くような仲だ。戦友というところ

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第7話

三月二十一日(木)  250万円はイニシャルコストだったらしい。  ボコボコとぬるま湯が湧き出る限り、その処理のランニングコストがかかる。その内訳はぬるま湯を中和する炭酸ガス代と装置自体の電気代だ。年間50万円近くかかるらしい。他にもこの区画が埋まるくらい大掛かりな水槽を用意して、酸性の錠剤を混ぜる方法もあった。そちらの方がランニングコストはかからないが、急ぎということでジンベエザメはこの方法をとった。  取り壊す前のアパートは築四十年のボロアパートで部屋は四室だったが

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第8話

三月二十二日(金)  モグラと街のスナックに行った。正確には、モグラからカウンター越しに接客を受けた。バーの雇われ店長という肩書きが、モグラがいろいろやっているうちの一つらしい。 「自立とは依存先が複数あること。だから俺はいろいろやっている。スラッシャーって奴だ。」  肩書きを複数持つ場合、肩書きの合間にスラッシュを入れる。それがたくさんあればスラッシャーらしい。  バーと言っても、店内は絶対にモグラではなく他の従業員がしたのであろう可愛らしいデコレーションがなされて

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第9話

三月二十三日(土)  ゾウ山に雲がかかると雨が降る。  ここら一帯の農家はその日の天候を判断するときに、市の北西に位置する山の様子を参考にする。相模湾で温められた空気はカピバラ市の平野を通過して、丹沢山地の入り口にあたるゾウ山にぶつかる。標高は1251m。そこで一気に上昇した空気は、冷やされて雲に変わる。ゾウ山の別名は雨降山と言われ、大昔には雨乞いが行われていた記録が残っているなど、雨の多い場所だ。  ゾウ山にかかるほど雲が発達すれば、二、三時間で平野にも雨が降り始める

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第10話

三月二十四日(日)  入居はすんなりと終わった。  ジンベエザメがクレーン付きのトラックを置いて、今日新たに乗って来た商用バンは、綺麗に整理整頓されていて、トランクにはポリタンクと測量器具と工具箱とコンテナボックスが一つだけ。窓には安全帯のハーネスやヤッケがハンガーでかかっているので、トランクを開けるまで中を見れなかったが、ここまで綺麗だとは思わなかった。  後部座席には布団とマットレスが畳んで置かれていて、運転席を倒せば、仮眠もできる仕様らしい。  なので、寝具とコ

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第11話

三月二十五日(月)  環境対策課の職員は下まつ毛が長い。パシパシとまばたきをしながら奥歯ですり潰すようにあれこれボヤいている。まるでラクダだ。  別件の帰りに車を走らせながら様子を見るつもりだったラクダは、たまたま私と目があってしまったので、降りて来たらしい。水質成分分析は専門機関の職員に既にサンプルを採取してもらっており、結果は一週間後になることを伝えたら、今回は正式に来たわけではないので詳しくは聞かないと言われた。  ラクダは中和装置の中を覗きながら、 「ゾウ山だっ

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第12話

三月二十六日(火)  モグラの言うイグアナ地区ぬるま湯事件の展開は、あれから熱を帯び、深夜にまで及んだ。  調子にのって普段飲まない酒を飲み、遅くまで話した疲れは三日経ってようやく抜けた。  モグラの描くサスペンスというかファンタジーは整理するとこうだ。  下水道には流さない。  中和もしない。  土地は売らない。  三年間で当初想定していた土地の売却代を捻出する。  その夢物語には、どうやら一つの輪っかがキーとなるらしい。  事件現場からカーブばかりの道路を500

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第13話

三月二十七日(水)  ジンベエザメの長靴は白い。にも関わらずドブにじゃぶんじゃぶんと入っていく。  農業用水路と言っても始点に近く、今は用水が流れる時期ではないため、周囲から滲み出た水がふくらはぎぐらいの深さで滞留している。幅は人が一人入れる程度で最初は下流から昔のロールプレイングゲームのようにジンベエザメに付いて行ったが、その水は重く、歩を進めるたびにジンベエザメの背中に、はねる気がして土手を歩くことにした。  上から見るに輪っかは見当たらなかった。  ジンベエザメは

《土木文学》「戊辰鳥 後を濁さず」第14話

三月二十八日(木)  モグラに物語の続きを語って欲しくなり、ジンベエザメとお店に行ったが、研修のため不在だと従業員の若い女の子が教えてくれた。一週間くらい不在となるらしい。雇われ店長が何の研修だろう。研修とはまたいい言葉を使ったものだが、セミナーと言い換えればなんだか聞こえが悪い。若い女の子も危なっかしくて詳しい話は聞かなかったようだ。  二人の女の子がついてくれた。  モグラがいない時のお店は初めてなのか、ジンベエザメはとても上機嫌で、女の子に「へ」の話をしている。