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Food for thought

最近二つの映画を鑑賞しました。

一つ目は、All of Us Strangersという英国の作品
二つ目は、私の幸せな結婚という邦画です。

All of Us Strangers は、原作が実は日本の作品。ですが、脚本などは、いわゆる西洋的視点で自由に展開されているので、そこに日本の文化的慣習的背景は存在しませんでした。ということで、この2つの作品から、日本とイギリスの文化的慣習の違いが浮き彫りになっていたように感じました。

どちらも根底に流れるのは、孤独、愛。特に孤独の描きかたは、どちらの作品も秀逸だと思いました。

All of Us Strangers 

孤独に日々を送る中年の主人公が、自分に訪れた「出会い」に戸惑い、自分が幸せになることに躊躇し、同時に過去に向かい合って、癒やしと赦しを模索する様子が、若く妖艶な若者との出会いに絡めて描かれています。

愛から程遠い生活を送っていた主人公
若く妖艶な若者

どちらもが絶望的に孤独で、愛と癒やしを得るために足掻く姿は、大胆なセックスシーン、ドラッグでハイになる様子等々でスクリーンに赤裸々に現されます。

これを義母と義姉と一緒に見た私、、、笑

私の幸せな結婚

こちらは、アニメ版を見てから、実写版を見ました。ビジュアルが非常に美しくて、まぁ言ってしまえばそれだけな、深いメッセージ性の感じられない作品ではありますが、主人公の孤独感や絶望そして婚約者との愛は、しっとりと情緒に溢れて描かれていて、All of Us Strangers の直後に見たので、非常に対照的で、興味深かったのです。

どこが?

日本人は、キスシーンさえないラブストーリーを創れてしまう!とこです。

英国だのドイツだの、それからフレンチだの、ラブストーリーでなくても、濃厚なセックスシーンやキスシーンが、お決まりのように出てくる世界に普段いると、もう、ハグとか目線だけで作品として成り立つのが、新鮮通り超えてショックでさえありました。

ここ数年韓ドラにどっぷりで、西洋に比べ、東洋(非常にざっくりとした言い方ですが、主に極東地域)の作品「愛場表現シーン」が割と淡白であることは、重々分かっていたのですが、それにしても、キス一つもなかったのに、十分愛を描ききるとは!

小さな仕草一つに、愛を読み読む

これが、日本のメンタリティーの底を流れる共感力のなせるチカラなのでしょうか。共感力はempathy と言い表しますが、愛情表現と置き換えてもうまくはまる気がします。

All of Us Strangers にみられるそれは、ハグであったりキスであったり、直接的でグイグイ押して来る。翻って、わた婚のそれは、推し測って、セリフやアクションは最小限の、まるでテレパシーレベル。

両作品を視聴し終わって、改めて、英語と日本語と2つの言語を教えるものとして、この乖離は無視できない根本的な相違であると感じました。

語学は、自分の身の回りから学ぶといいと、前々記事にあげましたが、言葉が違うということは言語の背景にある文化が異なるわけで、乖離のある事象が多く存在し、それは単純に置き換える事ができません。

その乖離を少しでも埋めるために、言語教師として何ができるのか、何をすべきなのか。

自身の個性を消すことなく、学習者自身の枠の中で、他言語を話す自分をその言語が培われてきた文化の中に置ける状態を作ること。それを疑似体験という形で提供することができるのが、言語教師の役割なのかもしれない。

そんなことを、考えた映画二本でした。



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