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大河ドラマ「光る君へ」第29回~『枕草子』と文学観について考える

こんばんは、もちまるです。

今回も大河ドラマ「光る君へ」の考察です。

今回は、『枕草子』についてフォーカスしていこうと思います。

印象的だったのは、まひろ(紫式部)と清少納言が話している場面。
2人の文学観が見て伺えました。

興味深い記事を見つけたので、引用しつつお話させてくださいね。

記事はこちら。


まひろは生き生きとした書きぶりに感心しつつ、「皇后(定子)さまの影の部分も知りたい。人には光もあれば影もある。そして複雑であるほど魅力がある」と語ります。文学表現におけるその指向性、すでに紫式部そのものです。

https://artexhibition.jp/topics/news/20240727-AEJ2235277/  より

『源氏物語』は、影が多くあるように感じます。

人間の色々な感情(光や影)が垣間見れる物語です。

その文学観というものが紫式部の根底にあった事が伺える発言ともとれます。

(私も『源氏物語』にある「影」の部分に魅了された1人です…)

しかし、影を要求する紫式部に対して清少納言は真逆でした。

「皇后さまに影などない。あったとしても書く気はない。華やかな姿だけを人々の心に残したい」ときっぱり。「皇后さまの命を奪った左大臣(道長)に一矢報いたい」とも言います。2人の文学観の違い、社会観の違い、政治的な立場の違いがくっきりと浮かびあがりました。

https://artexhibition.jp/topics/news/20240727-AEJ2235277/  より

何となく感じていた紫式部と清少納言の作風の違いがお腹にすっと来た感じがしました。

そう、『枕草子』には影の部分がないのです。
もちろんそれは、清少納言の考え方や価値観というよりも彼女がいた立場や政治的な背景なども踏まえた上の事でもあるとは思います。

ただ、後世の私たちから見ると紫式部と清少納言の文学観は対のように感じられる側面もあるような気がするのです。

どこまでも中宮定子は清らかで美しいまま。

歴史的には悲劇的とも思える定子ですが、『枕草子』には一切そういった記述はありません。

これはやはり清少納言が意図してそうしたことでしょう。

学生時代『枕草子』を授業で扱った時は、「春はあけぼの」や「香炉峰の雪」がメインでどちらかというとインパクトが薄いイメージでした。

定子の存在もドラマを見る前までは、『枕草子』を読んでも中々ピンと来ず、どちらかというと彰子の方が強いイメージでした。

今回ドラマを見る中で改めて『枕草子』の魅了や中宮定子について理解を深める事が出来、やはり映像の力というものを感じました。

高校生の頃に「光る君へ」を見ていたらもっと古典の授業が楽しかったのになぁ…

大学生になって古典文法地獄から解放されてようやく古典を読み解く事が楽しくなりました。
大学で日本文学を研究していた割に高校の古典はあまり好きではありませんでした。

文学とは自由であるはずなのに、文法が最優先になってしまってカチカチの現代語訳で意味もよくわからず、物語の内容は二の次だったからです。

古典の物語がテストで点数を取るため、大学に入るためのツールになっていることにどこか納得出来ないものがあったのでしょうか。

文法の基礎知識がないと古典を研究する事も出来ないので難しい問題ですが、少しでも「光る君へ」を見て古典嫌いの学生が減るといいな…と思います。

今後、『枕草子』は政治的性格を持ち始めると言います。
文学と政治、いつの時代もテーマになる面白い部分なので、今後を楽しみにしていようと思います。

さて、今回はまひろの夫宣孝が急死してしまうというとても悲しい場面が…

平安時代は医療も発展しておらず、栄養面や生活環境からしても寿命が短かったのではないかと思います。

命のはかなさを感じて、「今」の大切さに気づきました。

当たり前の「今」ではないから大切にしたいですよね。

そんなことを考えた今回でした。
最後までお読みいただきありがとうございました😊

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