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数学や統計学の先に正しさがあると思っていた(3・終):目指す先は真理ではなく

数学や統計学の先に正しさがあると思っていた(1)(2)の続きです。続きですが、単品でも読めるつくりになっています(たぶん)。
今回がシリーズ最後です。最後にこのシリーズの3本の記事のまとめがのっていますので、手っ取り早く知りたい方は目次の『数学と統計学の先に正しさがあると思っていた』まとめ をクリックしてください。

目指すのは適切な”ヒント”になりうるモデル

「”正しい、真のモデル”なんて求めちゃいけないよ」

と指導教官は言った。絶対的に正しい、森羅万象を説明するような理論など、求めてはいけないのだと。

思えば、先生は折に触れてずっとそう言ってくれていた。けれど私は、その真意をよく理解していなかった。

「いいかい、求めるのは真のモデルじゃないんだ。良いpriorとなるモデルなんだよ」

prior ーーベイズ統計学の言葉で、事前確率を意味する言葉。ざっくりと簡単に言ってしまうと、物事に対する”予想”を表したものだ。

現実の経済というものを知るために、より精緻で、より良い”予想”ーーきっとこれはこうだろうーーを立てるのに役に立つモデル(理論)を作る。これが経済学者のひとつのあり方なのだと、そのとき身に染みて理解した。現実の世界を理解する際に、そのより良いヒントとなるようなモデルを作る、と言ってもよいかもしれない。

【補足的なおはなし】
ここでの”予想”は正確には、「人がデータが得られる前に持っている、ある物事に対する不確かさ」という意味で、通常は”信念”という言葉が当てはめられていることが多い。けれど、ここでは、ちょっと仰々しい”信念”なんて言葉を使わずに、日常的な”予想”という単語を使って記している。

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”現実的じゃない”モデルが教えてくれること

続けて、先生はこう言う。

「モデルは現実世界の”抽象”なんだよ」
「抽象なのだから、”現実的な要素”をやみくもに放り込めばいいわけじゃない

先生はさらに続ける。

「シンプルなモデルは、決して現実的じゃない。現実とは違う仮定をいくらでも見つけることができるし、そんなことは誰だってわかっている。でも、”抽象”としての役割を十分に果たしているから、人はシンプルなモデルを捨てたりはしない

モデルの仮定が現実的じゃない、と批判する人がいる。それは学者だけではなく、少し学問をかじった人(学部生や非アカデミックに属する人々も含む)からもよく聞く指摘だ。

合理的経済人とか代表的個人とか、完全競争とか。例をあげたらキリがないくらい、非現実的な仮定は経済学のテキストを開けばいっぱいある。それに対して、批判も擁護もまた、いっぱいある。

シンプルなモデルは、そうした非現実的な仮定の上に成り立っていたりする。そうしたモデルは、わかりやすくて解きやすく、経済学的な直感というものを養わせてくれる。そして、複雑怪奇な現実を抽象化し、現実を紐解く鍵となる。

しかし、シンプルなモデルだけでは、ある特定の物事を理解する際に不都合が生じるから、人はよりその物事の理解に適した仮定を足したり、既存の仮定を修正したりするのだ。その際は、具体的な不都合と、新たに足すなり修正される仮定がその不都合の解決にどう寄与しうるのかの仮説の明示が不可欠なのだと思う。

ただやみくもに「この仮定って非現実的だよね」って批判するだけじゃ、実は何の解決にもなっていないのだ。「こんな場合にこんな不都合がありますよ。そうしてこれを修正すると、こんなふうになるはずですよ」って言えるのが理想的な批判だろうと思う。

こうした真っ当な批判に対して、「いや、そうとも限らないです」とか「それは違います」とか反論できれば反論したり、「今後の課題とします」としたりしていくのかな、と思う。

そうして、この批判やそれに対する反論などはすべて”主観的な正しさ”の上に乗っかっていることを忘れずにありたいと思う。論理というルールにのっとって、主観的な自分の正しさを主張し、人がそれをまた自分の正しさを軸にコメントし、相互でやりとりを重ねていく。これが研究者や学者なのかな、と思っている。

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『数学と統計学の先に正しさがあると思っていた』 まとめ

(1)〜(3)の記事の内容をまとめると、

(1)正しさって、なんだ
 → ピッカピカに正しい、絶対的な正しさや真理ではなく、”主観的な正しさ”。その主観的に正しいと思うことを主張して、人にいたらない点などを指摘してもらって、自分の正しさというものを深めていく。

(2)”絶対的な正しさ”という神を失って
 → 絶対的でも主観的でも、”正しさ”というものを追い求めようとすると、なぜか生きにくくなってしまう。生きるために批判を避ける人もいる。けれど、生きることと正しさの追求の両立ができている人も、たくさんいる。その両立を私は諦めたくないな、と思う。

(3)目指すべきは真理ではなく(いまお読みいただいている記事です)
 → 「絶対的な正しさなどなく、あるのは主観的な正しさ」という中で、(経済)学者が目指すのは”真のモデル”ではなく、”現実を理解するより良いヒント”となるモデル。そのモデルが”現実世界の抽象”としての役割を果たせていたら、仮定が非現実的でも、学ぶ価値はある。もしそのモデルが、ある特定の物事を考える際に不都合が生じるようなものを有していた場合、その不都合を解決しうる代替案を出す。こうした一連は、もちろん論理というルールに基づいて行われるが、そこにあるのはやっぱり”主観的な正しさ”なのだろう。

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余談的なおはなし:間違えちゃったら、「テへッ」でいいんだよ

下書きした記事を前に、投稿するか悩んでいた。

何か理解を間違えていたらどうしよう。何か大きな間違いをしていたらどうしよう。

いつもそんな調子だから、人(特に初対面や先生)と研究の話をうまくできない。同様に、ネット上に知識系の話を載せるのなんて、絶対やだ。無理。怖い。

「間違えることは別に悪いことじゃないんだよ」

よく聞くセリフに続けて、先輩が言う。

間違えちゃったら、ごめんなさいすればいいんだよ。それも、『テへッ、間違えちゃったー。ごめんごめん』くらいでいい。そうしてまた考えればいいの」

本当かなあ、と思う。けれどまあ、信じてみるか。

書いていたことのなかに、間違いとかあるかもしれない。いまは正しいって(私が)思っていることでも、3年後・5年後・10年後の私にとっては「全然違うわ」ってなるかもしれない。それがもしかしたら1ヶ月後かもしれないし、明日かもしれない。

いずれにせよ、そのときは、「テヘッ、間違えちゃったー。ごめんごめん」って軽く(そして精一杯かわいく)謝るので、許してくださいませ。


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