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数学や統計学の先に正しさがあると思っていた(2):”絶対的な正しさ”という神を失って

数学や統計学の先に正しさがあると思っていた(1):正しさって、なんだ の続きです。続きですが、単品でも読めるつくりになっています(たぶん)。

絶対的な正しさに向かっていればいいと盲目的に信じていた

生まれてこの方、私は優等生タイプだった。成績はめちゃくちゃよかったわけじゃないけれど、”真面目ないい子”ではあった。

とはいえ、自分なりに考えて、自分の思うことをしてきたつもりだった。
けれど、その自分が思ったことは、どこかの誰かが定めた、絶対的な正しさを鑑みて決めたことのようだった。

「こういう世界はおかしい、いやだ」そんな思いで行動した数々に、自分で自分の正しさを定めているという意識は皆無だった。こころのどこかで、自分の行動は”絶対的に正しくあるべき”と思っていた。思えば、それは信仰心に近いものだったのかもしれない。かくあるべき、の姿にしたがって行動していれば、正しい人生を送ることができるのだ、といった風に思っていたような気がする。

そうやって生きてきたために、(1)で記したように、絶対的な正しさなどなく、あるのは主観的な正しさだけなのだ、と知ったとき、いかに自分が主体的に生きてこなかったか、何も考えてこなかったのかを突きつけられることとなった。

そうして、落ち込みに落ち込み、うつ状態に突入するきっかけとなってしまったのだった。(そのときの話は、原因・結果編改善策編に)

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「真のモデルなどない」と知って安堵した先生とショックを受けた私

指導教官と面談した際、こうした思いをぶちまけた。

「私もね、海外の大学院にいたとき、同じことを考えたんだ。真のモデルってなんだ、って」
「でもね、”真のモデルなどない”と知ったんだ。そんなものはないと知って、私はすごくほっとした」
「私はほっとしたけど、そうか、あさぎさんはショックを受けたんだね」

そう、指導教官は言ってくれた。「どうしてほっとしたんですか」と問うと、「だって真のモデルなんて途方もないじゃない」と笑った。

そうして、「何も考えてこなかった」と嘆く私に、優しく言った。

「何も考えてこなかったわけじゃないでしょう」

わっと泣き出してしまった。
考えは確かに足りなかった。甘いところもあった。でも確かに考えてはいた。浅かったけれど、馬鹿だったけれど、ちゃんと自分なりに考えてたんだ。

この言葉が優しく心に染み込み、陰鬱な気分を溶かしてくれた。この先生も同じことを学生時代考えていたのだと知って、一人じゃないんだと心強く思った。この日からメンタルはかなり改善することとなったが、もう一人、私の支えとなってくれた欠かせない人がいる。

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「真のモデルなどない」と知って死まで考えた彼

「真のモデルなどない」そう知って、安堵したという先生。それとは対照的に、前述のように大きくショックを受けたのが私。大きく絶望して死まで考えたのが、私の恋人だった。

彼も、私と同じ博士2年の夏休みの頃、同じようなことで大いに悩んだそうだ。自分のやっていることは”真理”から程遠い。正しいものなんかじゃない。まる1ヶ月人と会わず、深夜の街を延々と歩きながら考え続けていたらしい。(まだ恋人になるずいぶん前のことだ。確かに、ぱたりと研究室にこなかったことがあった)

そうして、人間の生きる価値は何か、人間にしかできないことは何か、まで死の縁を彷徨うようにして考え抜いた結果、彼は元々の気質をパワーアップさせ、超絶自己犠牲マン&人間コントロールマンとなって周囲のために鉄の心で人外的に奔走し、なんやかんやあってまた”人間”に戻っていき、それはそれはあたたかい人間になるのだけれど、これはまた別のお話。

考え抜いた彼の結論は、とりあえずやってみようだった。生きるべき理由も見つからないけれど、死ぬべき理由もまた見つからない。いま自分がやっていることは真理には遠いかもしれないけれど、ものを知ることは楽しい。別に死んでもいいから、とりあえずやってみよう。

その後、彼はいろいろな研究者に出会い、刺激を受け、この学問に希望を見出し、研究活動に輪をかけて没頭した結果、いま結構すごい論文を出しつつある。(それでも彼はやっぱり、自分のやっていることには懐疑的だったりするのだけれど)

「世界を変えてやるんだ」そんな意思を持ってひたむきに頑張るいまの彼の姿は、まぶしい。

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生きることを諦める必要はない

主観的な正しさを研ぎ澄ませて深めていくことは、難しい。
あまりに正しさを求めすぎると、それが絶対的なものだと信じているものだろうが、主観的なものだろうが、生きていくことは難しくなる(ような気がしている)。世の中に絶望したり、自分に絶望したりして、メンタルは最悪になる。

自分の思う正しさを貫ければ、死んでもいいーー
そんなことを言う人もいたりする。

反対に、他人の指摘に聞き耳を持たず、自らの主張の正しさを疑うことなく主張だけするのは、少なくとも学者・研究者としては、看過してはいけない態度なのだろうと思う。

けれど、残念ながら意外とそういう人は多い。そこに、必ずしも悪意があるわけじゃない。

「そうしないと業績かせげない」
「みんなやってる」
「そんなこと気にしてたら食っていけない」

別分野の友人に、あっけらかんと言われた言葉たち。この言葉の中にいくらかでも葛藤の色が見えたなら、手を取り合って語りあっただろうに。それでも「研究が大好き」と嬉々として話す彼女を前に、余計な悲しみを覚えてしまう。私の指摘が的外れなら、的外れである理由を、頼むから話してくれと思ってしまう。

生きていくことと、自分の正しさを深めて貫くこと。
いまの世の中では、悲しいかな、学者という世界であっても両者が相反することがあるらしい。

けれど、私はその両立をはなから諦めたくはない

幸い、同じ分野の周りの人たちは、こうした様々な葛藤をへて、生きることと自分の正しさに忠実であることの両立をはかっている人たちばかりだ。
ときには、自分の正しさの限界をきちんと理解してある程度の妥協はしつつ、それでもしっかりとした自己の信は持って、生きている。指導教官しかり、恋人しかり。それ以外の先生たちも、そんな姿勢がしっかりと見える。

己の正しさを貫ければ死んでもいいーー
聞こえはかっこいいかもしれない。その覚悟を持って生き抜かんとするのは素晴らしく思う。

けれど。たまに、「死にたい」が先にあって、そういう体を装っている人がいたりする。
そう言う人に対していま思うのは、別に死ななくたって、最大限己の正しさを追い求めることはできるでしょう、ということ。「死にたい」という気持ちの装いに、探究心を使わないで。まずはその「死にたい」に、必要であれば医者の手などを借りて向き合うことが先でしょう、と思う。

自分の正しさを深めて貫きながら、”生きる”のだ。
どれだけ遠回りになっても、自分の考えの至らなさに絶望しても、他人からの容赦ない指摘にへこんでも、社会や世界に悲しみを覚えても、自分で考えて考えて、正しさを作っていくのだ。

***

”絶対的な正しさ”や”真理”という神を失ったいま、こう気持ちを新たに、研究活動を進めている。

「真のモデルがないことはわかった。じゃあ何を目指せばいいの」については、最終回である次回に。


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