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しちふくじん

服が好きだ。

それだけの理由でおしゃれをしている。

センスがあるとかないとかの話ではなく、
純粋に服が好きなのだ。

“鎧”である。

とてつもないコンプレックスを抱える私は服で自分を擁護している。

会う人に合わせて服を変える、
それに合わせて自分も変える。

朝起きて、ボサボサヘアとすっぴんを鏡越しでみて絶望する。これが毎朝の日課。

歯を磨いて、朝ごはんを食べて、
メイクをする。
それから服を選んで、ピアスを選ぶ。
最後に靴下を履く。
髪の毛は適当に巻く。
適当が一番おしゃれに見えるんじゃないか説を提唱している私の髪は、
結ぶか後れ毛をくるくるっと巻いているだけだ。
それで十二分なのだ。

キマリすぎると逆にださくなる。
それが自論である。

服を選ぶ、という行為はマナーでもあるのだ。

人を不愉快にさせない服装が大事だと思う。

不潔そうな服を着た人には近寄りたくない。
私は近寄られたい。近寄られたい…なんか違う。まぁいい。なんでもいいのだ。

だから服に気を遣える人がだいすきだ。

服に気を遣える人は周りの人にも気を遣える、という偏見がある。

ただの偏見だが、
「見た目で判断しないでほしい」
とか言ってる人間こそ中身すかすかすぎて
ヘチマのタワシである。

「見た目」しか判断材料がないとき
服に気を遣っている人のほうが印象がいいはずだ。

そもそも見た目で判断するな、とかいうのは暴論すぎる。

だからと言ってブランドもので固めろ、という話ではないし、
ブランドに着られている人も恥ずかしい。
そしてブランドでマウントを取る人間も大嫌いだ。今すぐ脱いでほしい。

ブランドを着たとてお前の価値は一切上がらないぞ、と叫びたい。

服で個性なんぞ表現できっこないのだ。
服は服でしかない。

話が逸れたので戻ろうと思う。

他人、だが私をみて不愉快になってほしくない。だからこそ服を選ぶ。
誰も私を見ていないかもしれない、
それでも私は服を選んで着たい。

いつどこで誰に見られているか、誰と遭遇するかわからない。

そんな日々に少しでも自信を持って歩いていられるように。

私はわたしの好きな服を、
私らしく着ていたいのだ。

偏見にまみれた駄文を読んでくれた人へ
ありがとう。

#エッセイ #コラム #服 #ファッション #おしゃれ #お洒落 #日本語 #写真 #個性

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