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戻りたい思い出と、戻らない選択|家族の話

寒いからか、それとも久しぶりに家族に会ったからか、
急に情緒に来てしまったので記録。


今日、豚挽肉を買って、ハンバーグを焼いた。
ハンバーグを焼くと、母親に教わった料理を思い出す。
私が作る料理は、母親が作る料理よりは拙く、しかしハンバーグは記憶のままの味を作れる。

全て終わった食器を洗いながら、抽象化された記憶により、悲しいとも寂しいとも幸せともつかない感情がわいた。実際、久しぶりに感情が大きく揺れ動いて動揺している。

11月23日から24日は、祖父の家に家族で行っていた。
ちょうど誕生日だった祖父は、祖母が先立ってからもう7-8年以上は生きている。祖父の身体は記憶にあるよりも小さくなり、毎年歩く速度が遅い印象を受ける。

11月23日は、祖父が私を駅まで迎えに来た。彼が出歩く範囲を思うと、駅まで意欲的に出歩くのが珍しく驚いた。
祖父は私を溺愛しており、祖母とも思い出のある海鮮系飲食店に行くため、駅に迎えに来た。

次はこの店でこれを食べよう。とか。
次は旅行へ行こう。全然出歩くから。とか。

穏やかに次を考えるその空間は愛おしく、
しかし、過去とは違う新しいものだった。

私が幼い頃は、祖父とふたりでよく出かけた。
車でどこへでも行った。
大きな運動公園へ野生のメダカを取りに行ったり、プラネタリウムに星を見に行ったり、こども館に体験をしに行ったり、市民プールにも何度も行った。
公園でブランコに乗り続ける私を、トランポリンで跳ね続ける私を、祖父は止めもせず飽きるまで見守っていた。

けれど、ここ数年、当然もう大人な私は、祖父とは出かけない。
耳が遠くなった彼に話しかけることも、最近していない。

祖父の家では、寝る環境が悪すぎて眠れない。先日も同様に、眠れなかった。元々寝付きのわるい私だけれど、一人暮らしで、何も侵されぬ静けさを知ってしまった。

冒頭の通り、今日、豚挽肉を買って、ハンバーグを焼いた。
ハンバーグを焼くと、母親に教わった料理を思い出す。
私が作る料理は、母親が作る料理よりは拙く、(というか私は食に対し基本面倒くさがりだから味に頓着しなすぎる)しかしハンバーグは記憶のままの味を作れる。

母は過干渉で、私が料理をしていても強く入りこんで来た。焼き加減がどうのとか、味付けがどうのとか、嫌な工程はやってくれてしまうだとか。おかげで自立まで時間がかかってしまった。

でも嫌だったわけじゃない。

しかし、母も祖父も話好きで、家には会話が飛び交う。口頭言語の下手な私は知らず置いていかれる。「私では無い」私を代弁したりする。追いつけない、切り替えそうと思った時には話題が変わっている。中学とか高校生活でも、私はそうだったな。
家では、だから眠れない。喋らないことも多い。
嫌いだろうが好きだろうが、関係ない。一人でいる時間が人並より多く必要な私はたぶん、別で暮らした方がいい。健康的に、相手を思いやれる。お互いのためだ。

昔、多くの時間を家族と共に過ごしたことを懐古する。
思い出は美化され、偶に会うと「思い出」と「前のままであれない理由」が私に突き付けられる。

「普通の人間」などいないと知っていながら、何度だって、「人並の感覚を持っていたら。家族と暮らして健康であれるくらいの鈍感さがあれば良かったのに」と思うから、私は私の特殊性を愛さない。

祖父も母も心から「いつでも戻ってきて良い」と言う。
まだそうするつもりは無いけれど、戻るとて前の形には多分私は戻れないけれど、そういう場があると思うだけで私は救われたりもする。

ああ、仕事行きたくないな。

過去のようには戻らない。過去は積み重なり、今の現実は思い出と違うものとなっている。
これからも毎時変わる現実の中、自分のために距離をはかりながら、人と関わるんだろう。

もっと考えずに人と関わっていたかった。
でも、私は私だから、なかなかできない。

なんか寂しいような、違うような、
という記録。

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