見出し画像

やっぱりみんな、人に「恋」するんだ|疎外感


「いい感じの人いたらしいじゃん!どうなった?」「どんなタイプが好き?」「顔?性格?どっち?」

……みたいな話は、人が仲良くなるための常套手段なのだろうか?
つまりみんなの共通言語として、恋愛がある。

そうだと思うんだけど、私は人のそういった面を知ると、疎外感をおぼえて勝手に人に幻滅する。苦しい!私だけ違う気がする。
ここ数年の悩みだ。

私に好きなタイプはない。
そもそも、自発的に恋をできない気がしている。

ないと答えるのもおっくうだから、普段言語化を大事にし、物事を言語に率先して変換する私は、あえて「優しい人」みたいな適当なことを言う。普段より適当なことを言っている時点でもう、察して私の話を聞かないで欲しい。
まあ言わなけりゃ察せないものですけど。


やっぱり人は恋をする。
なんで私はできないんだろうか?

その感覚を持ちうる方がマジョリティだから、私がその場限りの嘘をつくか、口をつぐむしかないのだろう。

嘘が嫌いだ。噂も嫌いだ。嘘なんて軽くついたら良いって?軽く生きればいいって?
いや、そうじゃないから私なんだ。分かり切った正論を言わないで欲しい。場への嘘を大きくとらえる私だから、もう、そういう話を振られたくないし、だったら私がその場にいたくないのだ。知らない場所でやってほしい。

私も人を好きになれる。
ただ、どう足掻いても。どう過去から現在を振り返っても。周囲の人に、キャラクターに、推しにでさえ、「自発的に」その「恋」という感情を抱いたことが無いのだ。もしくは、抱いてたころもあったかもしれないけれど、私の今の感覚にそれはない。ただ、少女漫画をなぞっていただけかもしれないから。

誰かから好きになってもらって、そのうえで好きになってくれた人の好きな部分を知って、私も好きになって。ゆっくりと自己開示をしたら、「思ってたのと違う」と離れられたことしかない。見た目や発言で勝手に近づいてきて、知ったら勝手に離れていくなんて、自分勝手が過ぎやしないか?
いや、良いんだ。好きになった人だからこそ、自由にしてくれたらもうそれでいい。でも、だったら最初っから近づかないでくれよ。その方がお互いのためだと思わない?好きなままでいられるじゃない。


でも、私だって人を好きだよ!
皆のいい部分も欠点も沢山知っている。これを愛と呼ばずになんと呼ぶだろうか。恋を感じづらくても、私にも好きな人は沢山いるんだよ。友達に恋人ができると、寂しい。やっぱり、同じ気持ちを返せないやつは、別物なんだ。番う時に「好き」もしくは「性」もしくは「社会的合理性」を重視する社会で、私は「どれにもなれない」のかもしれなくて、しんどい。私が自分から好きの種類を選ぼうとしないからきっと、私は一生知らないだろう。人並の速度で人を好きになれることは無い。無いことを知っているし、直観的に未来の私もそうだろうと理解している。

こんな私は生き残れるのだろうか。

だけど、私は私の「好き」を素直に人に伝え続けたい。
だけど、近づいて「違う」と突き放されるなら近づきたくない。

私みたいな人を社会的にどんなカテゴリで呼ぶのかを知っている。
でも、自分のカテゴライズをしたいとは、今は思っていない。
だって、決めつけてしまったら寂しくて仕方ない。
そうじゃない可能性もあるかもしれない。

どんな性別の自認で、どのような恋愛対象でも、誰かに恋をして好きになれる時点でうらやましい。その感情をそのまま伝えればいい。分からなければ伝えようがない。共有できない。
自発的に恋ができるのは、生まれ持っての才能だから。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,832件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?