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今年81歳になるパソコン初心者です。娘に勧められて一昨年の末にやっと手にしたパソコンで…

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今年81歳になるパソコン初心者です。娘に勧められて一昨年の末にやっと手にしたパソコンでなんとかブログを開けるようになりました。趣味は特に本が好きです。今は歴史ものを特に読んでいます。本の感想と夜ご飯日記を書きます。墨絵の写真は私の作品です。

最近の記事

想い出 その4 1958年

歌劇団は昨年の十二月十日に三十数名のメンバーで、第二回東南アジア公演に出発してバンコク、ベトナム、マニラ、香港を公演して四月十日に帰国。したがって春のおどりは、留守番組と私達本科生全員が出演しました。いよいよ研究生最上級生です。入学試験のお手伝いもしました。本公演の稽古が行われる期間、国際劇場は歌手のショウを公演します。期間は一週間で次のショウになります。この時期出演したショウの一つは、カリプソとメケメケ、カリプソのバナナボートをヒットさせた濱村美智子氏と、今もなおお元気で活

    • 壇林皇后私譜  杉本苑子著上下

      闇に怨霊が跳梁跋扈し、桓武天皇が長岡京から遷都し、陰謀渦巻く平安京が舞台,橘諸兄の曾孫橘嘉智子が主役、絶世の美貌で聡明でもあった。故に桓武天皇の二男神代皇子後の嵯峨天皇に迎えられる、兄は平城天皇、娘について宮中に来た藤原の式家の薬子を見初める、従兄弟の橘秀才呼ばれる橘逸勢、共に唐に派遣されたのは空海、最澄。奈良朝から中世にかけて天皇の権威の下、その門流が繫栄を極めた名族、源平藤橘が挙げられる。源平はかなり後の平安時代後期に登場するが、藤橘の藤は南家、北家、式家、京家に分かれて

      • 方丈平家物語 伊藤俊也箸 その三

        さらに俗界を捨てる覚悟で大原に代わる土地を探す、浄蓮上人の知遇を得た上人の父上とは歌会で顔を合わせてもいたから自ずと話が弾んだ。上人の氏寺が洛南日野に大伽藍を持つ法界寺であって、その寺域の外山に別院を建立したと聞き、私が方丈の庵の場所を探していると言うと、紹介をしてくれた。住まいに戻ると使いの者が寄人の飛鳥井雅経からの文を持参していた。文には、鎌倉の実朝様から勅選歌人の内誰か来ていただけまいか、是非直に教示願えればと言うて来ている。あなたを推進し同行出来ればと思います。断る理

        • 方丈平家物語 伊藤俊也箸 その二

          やがて長明は、検非違使庁に出ている幼馴染みの友次童丸の家に世話になった。話は前後す、突然入道寂連が突然亡くなった、俊成、定家親子にとって身内にあって、詠み手としても重鎮であり。私は寂連入道と親しく交わり教えを乞うことが出来たので寂しさが募った。また傍から見れば、私が寄人となり毎度歌合いで上皇と同席している事実から、上皇との特別な関係を殊更感じ取る者がいた。いつでも私の敵役として登場する下鴨神社禰宜鴨弘兼。弘兼はその利害関係において、上皇との関係を深めている私の存在に危機感を抱

        想い出 その4 1958年

          方丈平家物語  伊藤俊也箸 そのー

          方丈記、作者は鴨長明、いつの時代に書かれたものか、そもそも鴨長明とは何者、平家物語は、誰が書き記したものか、語り始めの名文を読めば僧侶ではないかと思う。方丈平家物語とは。早速ページを開いた。前文がありました、令和二年に京都日野のある寺の住職が、日頃気になりながら長年開かずの扉と言われてきた土蔵を開くことを思い立っ。実はいろいろな風説があって、開けるにはそれなりの勇気がいった。半ば恐々半ばいや増さる好奇心、いざ開けてみると埃こそ積もっていたが、中は整頓さのれていた、先ず興味のあ

          方丈平家物語  伊藤俊也箸 そのー

          想い出  その3 1957年    

          写真の説明 国際劇場正面玄関 松竹歌劇団五十年記念写真集より 一年が無事に過ぎ本科生に、その間に同期が十人近く辞めて行きました。三月十五日に初日を開ける、松竹歌劇団創立三十周年記念[東京踊り]で初舞台を踏むことになりました、まだ学生なので舞台実習です。楽屋口を入るとエレベーター前に神棚があり、必ず舞台の無事を願い挨拶をしてから楽屋入りをしなさいと教えられました。当時日本一大きさを誇る国際劇場です。稽古場は三階と四階と地下にもあります、特に四階の稽古場は公演の通し稽古が行はれ

          想い出  その3 1957年    

          月ぞ流るる 澤田瞳子著 その四

          あれから十年以上たちますが、いまだに原子様との語らいが、漏れて来ぬのはあの女房は亡き御主の命を今も守っているのでしょう、まだ十六、七の若さでした。成子の口調が耳に蘇る。間違いない原子が成子との面会に連れてきた若い女房は右近だ。そしてそれ程女御様を慕った右近が今椿を嫌うのは、女御様を殺めた犯人と関わりがあるからか。頼賢は右近を捕まえて白状させると意気込む、本当に右近が関わっているとすれば、原子の死にはその忠義心をもねじ曲げる力が働いている、とすれば力ずくで迫っても決して右近は

          月ぞ流るる 澤田瞳子著 その四

          月ぞ流るる 澤田瞳子著 その三

          内裏炎上から、朝児は頼賢がふっつりと姿を見せない。しかも慶円の従僧の中にも居ない心配して叡山に聞合せた、すると慶円はあ奴にはあ奴の考えがあってのこと、いずれその理由が知れようご案じ召さるな、頼賢は生まれ育ち故か実際の歳より肝が据わっている。でも叡山以外を知らない頼賢を心配無用と断言するとは、よほど弟子を信用していると見える。朝児は、(世、始まりて後この国の帝、六十余代にならせたまひにけれどー)村上天皇から、花山天皇の即位まで、天皇の事績を思い付くままに綴った。朝児が初めてこの

          月ぞ流るる 澤田瞳子著 その三

          月ぞ流るる 澤田瞳子著 その二

          頼賢の生まれや育ちに哀れを覚える朝児だった、帰邸し拳周と大鶴に小鶴が寺での出来事と慶円が朝児にした頼み事を話した。荷が重いと断ったにと聞き拳周によくぞ断った、道長様の甥、だが、藤原一族の恥部関われば我が家の興隆に障りが出る。弟子取りを頼まれた朝児に、そんなことより写経や読書、社寺参詣など寡婦らしい暇つぶしがありましょうと言われる。朝児はそれを聞いて暇つぶしだと、なんということをかっと胸に熱いものが来、妙悟尼に頼賢のこと引き受けると文を届ける。さっそく慶円に伴われて頼賢がやって

          月ぞ流るる 澤田瞳子著 その二

          月ぞ流るる  澤田瞳子著

          赤染衛門が何故に[栄花物語]を書くに至るまでの物語です。かって和歌の名手と謳われた赤染衛門こと朝児、夫大江匡衛を亡くし、五十半ばを過ぎてこれからは夫の菩提を弔いながら、余生を過ごすのか。朝児はかって大納言源雅信の屋敷で姫君の倫子付きの女房として働いていた。倫子は宇多天皇の曾孫に当たる血筋正しき姫君、我こそは婿にと、大勢の公達が出入りしたが、倫子が選んだのは摂関家の五男、今の左大臣道長、この時朝児の所に通ってきたのが匡衛だが、いざ添ってみれば浮気な男、よその女に男児まで生ませた

          月ぞ流るる  澤田瞳子著

          大鏡の人びと 行動する一族 渡辺実著 

          大鏡の人びと 行動する一族 渡辺実著 

          のち更に咲く  澤田瞳子著

          この物語は源氏物語の外伝に類すると思います。平安時代に京を跳梁した盗賊団袴垂保輔が物語の背景にあって、意外な主人公の登場に興味が湧く、藤原元方天皇の外祖父になる夢破れ、悶死、娘が村上天皇の皇子を儲けたが、立太子出来なかった。息子の致忠は酒席で人を殺めて佐渡へ遠流、その孫たちの物語、長女大紅源満仲に嫁ぎ、源頼光兄弟の母、長男の斉充気に食わぬ公卿の闇討ちに失敗して殺害される。二男保昌肥後守道長の信頼する秘書。三男保輔徒党を率いて盗みを働き検非違使に捕縛され自害。末娘小紅道長の私邸

          のち更に咲く  澤田瞳子著

          想い出 その2 1956年から

          写真の説明 1実家の写真館、2映画館(芝園館)1944年何れも祖父撮影 手前は歌舞伎座。 東劇にある松竹音楽舞踊学校への通学路は、有楽町駅を降り晴海通りに出て左に日劇を見、今はデパートと映画館になっている、石造りの数寄屋橋を超える、橋の手前には朝日新聞社現在築地に移転、今は橋も無く暗渠なり宝くじ売場のあるショッピングセンターに、数寄屋橋交差点を向こう側に渡り四丁目へ向かう、安藤七宝店を過ぎ日の出煎餅、手前の角を右手すずらん通りを覗くと和菓子の鹿の子、隣は確か鳥居という生地店

          想い出 その2 1956年から

          華のかけはし 東福門院徳川和子 梓澤要著

          東福門院徳川和子 徳川二代将軍秀忠とお江与の末娘、この夫婦の間には二男五女が生まれた。長女千姫は豊臣秀頼の妻初姫は京極高次の妻である次姉へ養女、珠姫は前田利常の妻勝姫は松平忠直の妻、家光、忠長、そして和姫後の和子は後水尾天皇のもとに入内と決められた。徳川の血を引く天皇の誕生という悲願のために、この時代良家の女は哀しい、自分の意志でなく実家の為に嫁ぐ、和子は十四の時に二度と、江戸の土は踏めぬと京へ旅経った。後水尾天皇は十一歳年上その上およつという女官との間に、二人の子までなして

          華のかけはし 東福門院徳川和子 梓澤要著

          ふりさけ見れば 上下  安部龍太郎著

          七百十七年第九次遺唐使、多治比縣守は安部仲麻呂、吉備真備ら随行して唐の都長安へ。七百二十年仲麻呂は科挙に合格二十二歳任官する、唐は皇帝玄宗の親政、玄宗は則天武后の孫、日本では日本書紀が完成した。天皇は元正女帝の時、仲麻呂は時の権力者に気に入られ姪と結婚双子の男子に恵まれる。この頃から高力士が玄宗の寵任を受ける、吉備真備は同僚の井真成の死去に[李訓墓誌]を書く七百三十四年、(千二百以上の時を越えてこの墓誌は最近発見され、書体は吉備真備の筆跡とされる。新聞に拓本が載っていました)

          ふりさけ見れば 上下  安部龍太郎著

          想い出 その1 1956年から

          想い出 その1 1956年から