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月ぞ流るる  澤田瞳子著

赤染衛門が何故に[栄花物語]を書くに至るまでの物語です。かって和歌の名手と謳われた赤染衛門こと朝児、夫大江匡衛を亡くし、五十半ばを過ぎてこれからは夫の菩提を弔いながら、余生を過ごすのか。朝児はかって大納言源雅信の屋敷で姫君の倫子付きの女房として働いていた。倫子は宇多天皇の曾孫に当たる血筋正しき姫君、我こそは婿にと、大勢の公達が出入りしたが、倫子が選んだのは摂関家の五男、今の左大臣道長、この時朝児の所に通ってきたのが匡衛だが、いざ添ってみれば浮気な男、よその女に男児まで生ませた、それならばと朝児も負けじと行動を起こしたら、それを知った途端朝児を手放すのは惜しくなったのか、生まれた男児を母親の手許から引き取って、朝児のもとに伴いどうか嫡子として育ててくれと頭を下げた。三十五年も昔の怒りが蘇る。拳周と名付けた男児は生さぬ仲と、知っているにも拘わらず母子の仲は平穏。朝児は源雅信の屋敷では、父赤染時用の名にちなんで赤染衛門と呼ばれた、そんな朝児も母の早世した前夫の娘であって、血のつながりはない。匡衛はその事を知っていて生さぬ仲の幼児を拒みはしないと睨んだのか、その後二人の娘まで、生んでしまった、燃え上がるような熱い思いなどなくても、なんとなく惰性で暮らしを営んで行けるのが、夫婦という不思議さだ。長女の大鶴は三条天皇の中宮で、道長の次女姸子の下に出仕してい、拳周は三条天皇の蔵人として仕えている。匡衛は当代一の碩学の名をほしいままにしているのに、関心が専ら立身出世に向けられていた。大国の受領の任欲しさに、現在東宮の外祖父として権勢を振るう左大臣道長にも早くからすり寄っていた。その甲斐あって官職は式部大輔と文章博士に丹波守を兼ねる誠に結構なもの、先日の法要の際には、道長のみならず東宮の母である皇太后藤原彰子からも大層な供物が届けられ、参列者を驚かせた。拳周はただちに道長の屋敷土御門第に礼にはせ参じた。朝児は寄せられた悔やみの文に返事をきし、気の利いた歌の一首でもと、文の山から一通を手にしたすると。夫の叔母の妙悟尼から、叡山の権僧正、慶円さまが催す法華ハ講にご一緒しませんかと悔やみと共に誘われた。朝児は次女小鶴と共に説法の行はれる顕性寺へ出かけた。朝児達は本堂東の池の端に牛車を止めた、法会を待つ、鈍色の法衣に五条袈裟を掛けた五六人の僧侶が、渡り廊下を歩み、その背後まだ少年の面影を残した僧侶を従えて本日の講師権僧正、慶円が歩み出てきた。法華八講が始まった時並んだ牛車の列の端で、何をすると押し殺した怒声が境内で響いた、二人の雑色が互いの胸倉を掴みあっている、慶円の講説が朗々と響く厳粛な法会の席否応なしに響き渡った、すると本堂の隅に座っていた慶円に従って渡廊を歩いてきた少年の従僧が、がばっと立ち上がり庇の間から簀子へ走り出た、高座を囲む衆僧はもちろん慶円までもぎょっとして[頼賢]慶円の口から悲鳴に近い声が漏れる。頼賢と呼ばれた従僧は高欄をまたぎ越えて争っている雑色の頬桁を殴りつけた。慶円様のありがたい講説の最中に喧嘩とは、この不届き者めが、それを見た仲間の雑色が頼賢の腰にしがみつく、頼賢はためらうことなく膝蹴りをくらわす。頼賢を取り押さえようとした従僕が、誤って手近な者に拳をふるう相手が殴り返す、そりからは何だか分からぬ乱闘があっという間に大きくなった。その中を叔母の妙梧尼を見つけて牛車に乗せ。最早法会どころではない、引き上げましょうと牛飼いに命じた。するとまだ寺を去るわけはいかない、今日は朝児どのに引き合わせたいお方があっての、今日法華八講にお誘いしたのは匡衛殿の菩提を弔うことと、それが目的でもあって。それはどなた様なので、お一人は権僧正の慶円さま、もう一人はあそこで喧嘩をしている頼賢どの、突拍子もない話に朝児は耳を疑った。実は慶円さまたってのご依頼で、詳しくは慶円さまより直に聞いたほうが早い。慶円は加持祈禱の霊験あらたかな高僧と知られ、昨年没した先帝からも厚い崇敬を受けていた、その方が親しげな口調で話し始めた、本来ならば弟子の頼賢も同席させねばならないが、あのような始末まずは拙僧より、前の文章博士の北の方さまにお願い事させていただきたく。あのよう頼賢を大江家様の門弟にしていただきたいのです。あれは十五歳になったばかり、叡山にて仏教関係は一通り学んでいるが、それ以外の和漢の書物に関しては無知のままで、大江家は学者の家柄、門を叩く人は受け入れ講義を行っていた、それは俗世にある者、出家の身しかも権僧正に仕える従僧が、在俗の学者からわざわざわ和漢の書物を学ぼうとは聞いたことがない。しかも高欄から飛び下り雑色を躊躇なく殴りつけた頼賢の姿。朝児は息子の拳周に聞いてみますお返事はしばしごご猶予をと。ところが慶円はご子息ではなく北の方さまにです。驚く朝児に慶円は妙悟尼から伺っております、かってお若い時源倫子さま付きの女房として、働かれ才女として随分名を挙げていらしたとか、さすれば頼賢の和漢の書物を手ほどきなど、さしたる苦ではございますまい。それは三十年前昔の話です。、わたくしが得意とするのは歌なのです。学問の師とするのならば息子の拳周に。そうしたくても出来ぬ仔細があの子にはある、御子息をはじめ宮城に官職を得ていられる人は、決して頼賢には近寄ろうとはしない。それは、頼賢の母御は関白藤原兼家様の娘綏子さま、道長様の妹にして現在の帝三条天皇の女御だった方、まだ東宮でいらした二十年前に入内したが、あまり仲がよろしくなく、一年で里下がりをして以来一度も内裏へ上がっていない、七、八年経った頃ご実家にいられるはずのすい子様ご懐妊の噂が、宮中に流れ異母兄である道長様が、東宮様の命を受けて糾問したところ、当時の弾正大弼源頼定様との密通が明らかになった。長らく東宮様と不仲とは言え、東宮后が不義の児をはらむなぞ前代未聞、それだけに道長や兄弟がたは腹の児を始末せよと、説得するがすい子は頑として拒み、どうしても堕胎せねばならぬなら自害すると言い立てた。密通のはての妊娠に狼狽した源頼定は詰め寄るすい子の兄弟たちに、知らぬ存ぜぬを貫いた。こうなれば後は死産を願うと。そんな一族を嘲笑うように生まれてきたのは、五体満足な男子。不義の児を産んだといえ、綏子は皇太子后の立場、他の男との子を手許で育てさせられない。そこに助け舟を出したのが同じく東宮様の女御藤原原子様、定子皇后の妹君、原子にとって綏子は七歳上の叔母。すい子と異なり東宮の寵愛が厚い、赤子を手にこの子が物心つくまでわたくしの元で育てさせてください。長じた後は必ず叡山に入れ出家させます。それまではこの子に人並みの暮らしをと頼んだ。両親がいかに憎くても赤子には罪はない、かくして頼賢は原子様の手元に、でも原子様はそれから四年後二十二歳でも急逝、頼賢は五歳の時に叡山に放り込まれた。綏子は原子の死から二年後に亡くなる。父親の源頼定は叡山に入れられた頼賢に、父子の情を示さない。その二へ続く









さま
りょう


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