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想い出  その3 1957年    

写真の説明 国際劇場正面玄関 松竹歌劇団五十年記念写真集より

一年が無事に過ぎ本科生に、その間に同期が十人近く辞めて行きました。三月十五日に初日を開ける、松竹歌劇団創立三十周年記念[東京踊り]で初舞台を踏むことになりました、まだ学生なので舞台実習です。楽屋口を入るとエレベーター前に神棚があり、必ず舞台の無事を願い挨拶をしてから楽屋入りをしなさいと教えられました。当時日本一大きさを誇る国際劇場です。稽古場は三階と四階と地下にもあります、特に四階の稽古場は公演の通し稽古が行はれる広さでした。二クラスに分かれていましたが全員による舞台実習です、出番は東京踊りの幕開けの総踊り、衣装は振袖にだらりの付け帯傘を被り、手にはは三階傘を持ち、暗転のうちに緞帳が上がり、東京踊りはヨーイヤサー、の掛け声とチョンと木の音で照明が一斉に付き幕開です。客席からは驚きとため息の何とも言えない声が、上がるものでした。幕開けの一景がすみやか終わると、全十八景の内あとは十四景辺りに、百人のラインダンスが私たち実習生の出番です。黄色の衣装を着て頭は帽子に羽根がついたものでした。舞台いっぱいに百人が踊るのですから圧巻です。後はフィナーㇾです。フィナーレは四階の大階段が舞台に設えられ、出演者全員が劇場の四階から降りていきます。私たちは一番最初に行進して降り階段の左右に分かれて板付きし、次々と上級生がおりて来て、それぞれの位置にたつと、舞台は暗転にそこで階段の中程に設置しているせりから、スポットライトがあたり川路竜子さん、小月冴子さん、南條奈美さんがせりあがってきます、そしてグランドフィナーレの総踊りで幕が降りる。当時は西部劇映画が隆盛でした。公演中に西部劇の大スター、ジョンウエインが来場したのを覚えています、テレビで人気の幌馬車隊のフーバー隊長等を引き連れて、終演後舞台に上がって来た時大変大きな方に驚きました、ジョンウエインはラグビーの選手であったとのことで納得。当時アメリカではプレスリーが全盛、ロカビリーです。日本では山下敬二郎氏、平尾昌晃氏、ミッキーカーテス氏の三人が大人気でした。スポーツはプロレス力道山です。東京踊りは六月十日千秋楽の後、私達は元のA、B、ニクラスに分かれての舞台出演になりました。私達はウエスタンの小坂一也ショウに出ます、ウエスタンダンスを開拓時代の衣装を着て踊りました。また私は初めて男性と組んで踊る経験をしたのです。公演は一週間です、その間上級生歌劇団員の皆さんは、七月初日の夏のおどり、の振付稽古に入っています。私たちは学校に戻り通常通りのレッスン漬けに、このことが楽しかった日舞やバレエのレッスンにいそしみました。確かこの年の秋、フジテレビができたと思います。開局記念番組に同期八名で出演しました。ミュージカル仕立のものでした。私たちはプロローグのダンスとフィナーレ。出演した方達を覚えています。まだ五社協定があった時代、松竹からは私たち、東映からは中原ひとみ氏、新東宝からは久保菜穂子氏、新派からは柳永二郎氏、朝丘雪路氏、ジャズ歌手の笈田敏夫氏と夫人の宝塚の男役だった宇治かおる氏、この三方が歌っている場面は鮮明に覚えています。日活からは長門裕之氏、と記憶しています。勿論生放送、カメラは一台だけ、ディレクターの手がカメラの横に指を五秒前から折開いて音出しです。人生初のテレビ出演六十七年前のこと。フジテレビはその頃河田町の曙橋の所にありました。その後小川宏ショウなどに出ましたが、全て生放送この年はいろいろなことを経験します。 その4へ


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