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想い出 その2 1956年から

写真の説明 1実家の写真館、2映画館(芝園館)1944年何れも祖父撮影
手前は歌舞伎座。

東劇にある松竹音楽舞踊学校への通学路は、有楽町駅を降り晴海通りに出て左に日劇を見、今はデパートと映画館になっている、石造りの数寄屋橋を超える、橋の手前には朝日新聞社現在築地に移転、今は橋も無く暗渠なり宝くじ売場のあるショッピングセンターに、数寄屋橋交差点を向こう側に渡り四丁目へ向かう、安藤七宝店を過ぎ日の出煎餅、手前の角を右手すずらん通りを覗くと和菓子の鹿の子、隣は確か鳥居という生地店、デザイナーの鳥居ユキ氏の実家の店、四丁目の四つ角は三愛当時は木造建築の二階建て、中原淳一が雑誌ひまわりに書いたドレス等があって、女の子が大好きな店でした前は和光、渡る角はライオンビヤホール、前は三越そして三原橋へわずかな坂に、昔堀があり掛かっていた橋の名前がそのまま残り都電はここで終点でした。昭和通りに角には老舗の足袋の専門店大野屋。昭和通りを渡る弁当屋の弁松、歌舞伎座の前には芝園館という松竹の映画館があった。隣はレンガ造りの四階建てのビル、私の母の実家でした、祖父は明治から戦前まで写真館をしていました、私が東劇の音楽舞踊学校に通う時には、手放していました。私は戦時中少しの間住んでいた、地下室は暗室、一階は店二階がスタジオ、三階と四階が居住区でした、幼い私のために屋上にブランコがあった。窓から前の歌舞伎座に町内会の方々が消火訓練を行い放水した水が高く高く歌舞伎座にかかる景色を今でも鮮明に記憶している。1956年当時のビルの所有者は知りませんが、写真を飾るウインドウには、宇野千代氏デザインの桜花模様の反物が飾ってあった。それを眺めながら今は高速道路になっている、築地川に掛かる万年橋を渡ると東劇に、エレベーターで五階へ到着。六十八年前毎日夢中で通っていた道筋。今は当時の面影はない東劇や歌舞伎座も建て替えられた。歌舞伎座や実家の辺りは木挽町と言いました、今は銀座五丁目。授業が終わると私たちは、松竹歌劇団SKⅮの本拠地国際劇場へ見学に、皆でワクワクしながら先輩方の舞台を見に行っていた、自分もあそこに立つのだと。学校から劇場へは、地下鉄銀座四丁目から浅草行きに乗り田原町で下車当時地下鉄はこれだけ、確か電車賃は二十五円だったと思う、この年の春の踊りには、大阪松竹歌劇団oskから(勝浦千波さん)が参加しているこれ以後oskとの交流はありません。東京踊り、夏の踊り、秋の踊り、一年間の公演日程です。一年が過ぎいよいよ本科生、     その3へ

       

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