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ふりさけ見れば 上下  安部龍太郎著

七百十七年第九次遺唐使、多治比縣守は安部仲麻呂、吉備真備ら随行して唐の都長安へ。七百二十年仲麻呂は科挙に合格二十二歳任官する、唐は皇帝玄宗の親政、玄宗は則天武后の孫、日本では日本書紀が完成した。天皇は元正女帝の時、仲麻呂は時の権力者に気に入られ姪と結婚双子の男子に恵まれる。この頃から高力士が玄宗の寵任を受ける、吉備真備は同僚の井真成の死去に[李訓墓誌]を書く七百三十四年、(千二百以上の時を越えてこの墓誌は最近発見され、書体は吉備真備の筆跡とされる。新聞に拓本が載っていました)洛陽に玄宗は移る、第十次遺唐使洛陽にて玄宗に拝謁、吉備真備僧玄昉達は帰国真備に息子二人を託し、仲麻呂は密命を受けとどまる仲麻呂三十六歳。安禄山、楊貴妃が登場、仲麻呂は密命を果たすため唐で出世していく、密命は皇帝の書庫に秘されている日本についての巻子を見つけよ。仲麻呂の妻と娘行方不明に、楊国忠宰相となる、仲麻呂楊貴妃の姉の玉鈴を妻にする。七百五十二年日本では大仏開眼、第十一次遺唐使大使藤原清河、吉備真備二度目の唐へ、翌五十三年仲麻呂は再会した真備と共に帰国の途に、仲麻呂が乗船した船遭難して安南に漂着した、二年の苦難の末唐へ復帰する。僧鑑真来日仲麻呂は帰国を諦める、そして安史の乱楊貴妃の殺害玄宗は退位、帰国した吉備真備は朝廷に出仕、平城京奈良では藤原一族の血の流入による皇統の簒奪の暗闘が、真備は否応なしにこの波に巻き込まれる。唐では安禄山が殺され長安洛陽を回復、七百六十年頃仲麻呂は安南ハノイ都護に赴任、玄宗、高力士死去七百六十三年安史の乱終わる。奈良では孝謙上皇が重祚し称徳女帝として即位。真備を右大臣に任命道鏡を法王に、七百七十年仲麻呂は唐で死去七十二歳大都督従二位を贈られる。吉備真備が称徳女帝の跡を天智帝の孫白壁王に即位を勧めたとある、光仁帝の誕生ここで皇統は百年続いた天武系から天智系藤原に移り桓武帝へ、真備は故郷吉備岡山に隠遁し、七百七十五年前右大臣正二位八十歳死去。日本と唐の歴史的な出来事があった時代。遺唐使は二十年置きぐらいに行われた。羅針盤もない時代に命がけで出掛けるのです。玄宗、楊貴妃、安禄山、高力士に会った唯一の日本人幾ら唐に重く用いられていても、望郷の念は如何許りかと。物語には真備の唐における妻(商人)が日本に仲麻呂の第二夫人玉鈴を伴ってきたとある。楊貴妃が日本に逃れてき墓というのがあります。場所は失念しましたがこんな言い伝えがあります。仲麻呂の苦難の背景には当時の超大国唐と、日本はいかに向き合うべきか、仰ぎ見る存在だが従属したくない、日本の礎を築くため。先人たちは難しい局面を切り抜いてきたのかと敬意を表します。
百人一首にある 天の原ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に出し月かも
この歌は仲麻呂が帰国の際に、王維たちが開いてくれた送別会で夜空に浮かぶ美しい月を見て詠んだ歌と伝わっています。三十五年の唐滞在を終えて帰る切々たる想いが、でも望郷の念はかなわなかった。この歌は今陝西省西安市興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江市にある北固山の歌碑に。漢詩の五行絶句の形に読み直したものが刻まれて残っている。帰国する船が難破し仲麻呂は死んだという誤報に、友人の(李白)は七言絶句(晁卿衡を哭す)を詠んで仲麻呂を悼んだとか、晁卿とは仲麻呂の唐での名李白と交流があったとは凄くないですか。資料に基づく壮大な物語です。是非お読みください。


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