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方丈平家物語 伊藤俊也箸 その二

やがて長明は、検非違使庁に出ている幼馴染みの友次童丸の家に世話になった。話は前後す、突然入道寂連が突然亡くなった、俊成、定家親子にとって身内にあって、詠み手としても重鎮であり。私は寂連入道と親しく交わり教えを乞うことが出来たので寂しさが募った。また傍から見れば、私が寄人となり毎度歌合いで上皇と同席している事実から、上皇との特別な関係を殊更感じ取る者がいた。いつでも私の敵役として登場する下鴨神社禰宜鴨弘兼。弘兼はその利害関係において、上皇との関係を深めている私の存在に危機感を抱いた。そこで上皇を招きこの機会を逃さず最高のもてなしをし相当の献上品をした、これが究極の効果を現したのだから。敵ながらあっぱれ、世渡りの巧さには脱帽した。俊成師の九十歳の賀を寿ぐ祝いの儀が執り行われた。宴が終わり、管弦の余韻も消えて最後に参列した各人の祝賀の歌が式台に置かれていった。上皇以下、参議資実、俊成師自身、摂政良経以下二十人が続いた、私は最後の一つ前であった。和歌所は定期的に歌会を開き、優れた和歌が生み出されるのを促す。目的の第一は歌会の積み重ねによって、生まれる秀歌が土台になって歌集が編まれるいうのだ。歌合いで詠んだ歌が四首選ばれる、中でも俊成師は私と定家と対決した時に、定家の歌に言及せずにもっともよしと最高の評価を下してくれた。この歌は上皇からも高く評価されたので。私としては誇らしい記念譜となった。私は精勤した宮仕えであることを口実に、下鴨神社の勤めも最小限に絞ったのだ。妻さよが死んで婚家を追い出された時、おほばの身近にありながらさよの親によって体よく遠ざけられていた夫婦が、私が家を出たことを聞き及び駆けつけてくれ、朝夕の食事の支度等を出戻っていた娘と共にやってくれていた。娘はちとせという、久し振りに下鴨神社へ出勤するつもりでいた朝。体がだるく嫌な咳が続き止まらずに寝床の中でもがいていると、朝食の支度をしに来たちとせが私の額に手を当てた。直ぐに連れてきた医師はつい二、三年前まで宮内庁の典薬寮で医師を努めていた老医師だった。私の病気をききおよんで駆けつけてくれた次童丸でさえその人の素性を知って任せきった。この病は冬に蔓延する流行病であること、かって三十二歳の一条天皇もこの病で亡くなった、あなたも四十歳を過ぎた身早くに手当てが出来て良かった。このような状況で琵琶の有安師の東大寺大仏殿落慶の式典に行くことが出来ず、また琵琶の秘曲[楊真操]を伝授されたところで、遠く離れた任地で師は逝ってしまったのだ。この病は年が明けて三月まで長引いた。私とちとせは病が平癒してから男女の仲になった。ちとせはまた有能な看護助手でもあって、長明が和歌所に出かけると老医師の手伝いに行っていた、ある日のことちとせが帰ってこない幾日もだ。心配で老医師の家を尋ねたが、留守で途方に暮れる私に、次童丸が伝手を使って老医師のあり処を突き止めてみるから和歌所にでろ。明け方厳しい顔をした次童丸が顔を出した。夜っぴいて尋ね回ってくれていたのだ、いい報告じゃない悪い病気に罹ったのだと、それも老医師の患者の一人からうつったものだという、始めは主に妊婦の手伝いに限ってだったが、ちとせが余りにも有能なのでつい見境が無くなりそこに連れていってしまった。その病者は高い身分の男で人一倍気儘で、注文が多く家の者が近寄らぬものだから。逆に献身的なちとせに甘え嫌な顔もせずに応えてやるから、益々その頻度が多くなりうつらないように気を付けていたのに、こんなことになって長明様には合わす顔がない。報告と謝罪に伺おうと思っていたが、二の足を踏んでいた先ず次童丸から伝えてくれとのこと。ちとせは何処にいるんだ、それだけはちとせさんに居場所を言わないでと誓わされた。私はちとせがいる茅屋さがして、ちとせを我が家に移し看病の為に、両親も我が家に移り住んでいいと告げて、次童丸のところへ行ったのだった。初めて次童丸と同居した私は彼の存在の大きさを感じ。私が今後の生きる道を確かめるには、次童丸の比護の下から離れる必要が。自分の向かうべき道も定めていた。すでに書き始めている歌論集を完成させ、これまで書き留めてきた様々な覚書や聞き書きを統一した形に纏めていこう。それらは煌びやかな宮廷生活を描いた女房たちの華やかなものとはならないだろう。出来れば後世に残ってほしい、世俗のすべてを失ったからこそ名前だけでも残したい。とはいえ次童丸の家を離れるには行く当てがなかった、次童丸の持ってきてくれた話は、東山の奥、西行や性照ゆかりの長楽寺等がある地で名もしれぬ寺も多く、しかも遁世者たちの庵も散在する。その名もない寺の一つ、そこで僧侶であるが周辺の遁世者を集めて歌会をやり始めた。ただ遁世者とはいえ宮仕えしていた連中も多いから和歌の素養はある、歌会を実りある会にするには優れた指導者が欲しい。御所の和歌所の寄人を勤められた方ならば三顧の礼をもって迎えるだろと。訊いてもらうと、是非ともおいでいただきたい、寂れた寺だが住み込んでもいただきたい。長明の歌が[千載和歌集]に載ったことも知っていた、その寺は思った以上に朽ちていたが素晴らしい自然がある。書き物する場所としてはこれ以上の場所は望めなかったろう。この古寺に住んで一年以上あっという間に過ぎた。上皇には家長を通じて和歌所を辞することは伝えてあったが、やはり不義理の誹りは免れないので、これも家長に託して十五首の歌を献上した。勅選集が完成した。私の歌が十首採用されていた。禰宜職を巡る今回の恨みつらみを歌にした[もろ葛]の歌をよくぞ取り入れてくれたものだ。上皇の好意と受け取った。禰宜の弘兼がお為ごかしのけちをつけた[石川やせみの小川]の歌も入った、せみの小川を最初に詠んだことが勅選集に刻みこまれたのだから、溜飲が下がり最上の歓びであった。勅選集の名は[新古今集]と名付けられた。これで公の関わりとしては過去のあらゆるしがらみから自由になった。ちとせが逝った、私はちとせが居なくなった我が家をちとせの両親に与え。本物の世捨て人になれる機会だから、古寺の主の住連房に頼んで得度の儀式を踏んだ、剃髪してしまえば後戻りする気も起こらないだろう、住連房については何も詳しくは知らないが、ここに世話になり歌会が機縁での束の間の付き合いであったが、住連房の連を貰って連胤とした。引越し先には歌会の常連でたった一人、わざわざ大原から出かけてきてくれた聖から、近くの庵に空きが出来て管理を任されてる、寺を出られる時が来たらいつでもどうぞお世話しますと言われていた、私がその勧めに関心を持ったのは、その聖が古き良き時代の聖人や高名な上人たちの逸話や各地の様々な説話に通じていたからでもある。大原に居を移したのを唯一世間とのつながりとして残してあった後鳥羽院側近の家長にだけは、出家したことと大原に住まいを移したことを伝えた。ここでものを書き、時には歌を詠みまた琵琶を弾く、そして浄土宗の奥義を極め朝な夕な念仏をして独居三昧を楽しもうと、思いの丈を膨らましていたところへ、家長からの使いの者が一通の便りを届けに来た。家長の文面には貴殿が出家されたとそのことを上皇に伝えると、貴方の手元に琵琶の名器手習があるはずだ、上皇は貴方が出家され世を捨てられたからは、管弦の遊びとも縁遠くなられるだろう。ならばとおっしゃっています。どうでしょう、受け取る私自身も御殿を留守が多く、一か月と日限を定めて来月の今日使いの者に渡してくれまいか。晴天の霹靂の文だった。何ということをこの時ほど上皇の傲慢さを呪い近臣の追従を軽蔑した。その時私の頭の隅に霊感が走るある魂胆が生まれた。お待ちしてますと返事を書いた。一か月の猶予あればこの手習とそっくりなものを何とか作り出せるのではないか。地下人を見下ろす殿上人達を、この名器手習の偽物をつかませる事でたぶらかしてやる。形体裁は兎も角手習と同じ音色が出せるかが問題だ、その点上皇一人なら誤魔化すのは簡単だ。いやあの方も端倪すべからざるところがあって油断はならない。おそらく私から分捕ったこの手習を周囲の管弦の徒にも披露のするに違いない。大事にしてきた有安師の形見である、この手習までも奪われたのでは死んでも死にきれない、本物の手習と寸分違わぬものを手習と称して提出するのだ。悔いを残さぬように私は寝食を忘れて手習作りに没頭した。なにしろ名器手習の複製だ並大抵のことではない。上皇が一度だけ私が弾き終えた手習いを手にしたことがある。小振りなところがいい弾きやすそうだといったあの時から欲しがっていたのか。期限前日に古色の陰翳もよく音色も遜色なく納得できる物が出来た。家長の使いの者に渡す撥に歌を二首したためて。家長が差し出した私からの献上品、琵琶手習を上皇がどのように受け取ったか想像するしかないが、上皇からその返歌を送ってきたのを見れば、さぞや満足であったのだろう。多少の罪悪感を覚えたが手元に残したい本物を見ると自ずと笑いが立つ。











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