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自己紹介

皆さんこんばんは。mです。
いつもTwitterで息している私ですが、24歳も残りわずかとなり、ふと「これまでまともに自己紹介したことなくね?」となったので、noteとやらを書いてみようと思い立ちおもむろにキーボードを叩いているところです。

長くなる気がしますが、しがない元無職女の生い立ちにもしご興味のある方がいらっしゃいましたら、読んでいただけますと幸いです。

幼少期

三人兄妹の末っ子として生まれました。兄たちは一卵性の双子です。私は、性別診断では男の子だったようで、母は「また男の子か」と思っていたらしいですが、生まれてみたら女の子でした。あらびっくり!名前決めてない!どうしよ!って感じで急いで名前決めたらしいです。

母は「ひな」みたいな可愛らしい名前をつけたかったらしいですが、「可愛い名前をつけて実際ブサイクだったら名前負けしてこの子が可哀想だ。」と父が言ったそうで、その案は却下されたらしいです。なので、私の名前の由来は「可愛すぎず程よい塩梅のやつ」だそうです。草。

小学校時代

わりと何でもできたと思います。宿題もちゃんとやるし、学級委員や児童会とかもやったし、勉強もそんなに苦手ではなかったと思います。先生や親に褒められることが嬉しくて、いわゆる優等生タイプだった気がします。ただマセガキっていう感じでもあったので、先生達からすると扱いづらかったのではないかなと思います。

小学校高学年になって、吹奏楽部に入りました。入ってみたら意味わからんくらいの強豪校で、死ぬほど練習させられました。もしかすると、人生で一番ハードな時期はここだったかもしれないです。毎朝朝練があったので、集団登校のみんなとは登校せず、6時半には家を出て学校へ行って授業が始まるまで音楽室でみんなと練習してました。もちろん土日も練習。大会前はホールを借りて練習。夏休みは外部から講師が何人も来て毎日練習。大会で東京、神奈川、埼玉、群馬、石川、北海道、色々な県に行きました。別で習い事もしていたので、放課後はピアノ・水泳・バレーボール・テニス・習字に行ったりしていました。

顧問であり、担任であり、委員会の担当まで一緒だった先生は、金八先生みたいで情に熱い先生でした。ちょっとマジで熱すぎるよ…ってくらい熱血で、子どもを子ども扱いしない、人の可能性を心から信じているような人でした。でもものすごく感情的で、ラジカセが壊れたり指揮棒が飛んできたりするのが日常茶飯事でした。

全国大会で金賞を取るくらい強い学校でしたが、当時はその凄さがあまり理解できていなかったと思います。今振り返ると、50−60人のズブの素人たちを信じて指導してそこまで一人で育て上げていたあの先生って一体何者だったんだろう…と思います。

中学時代

小学校の仲間がみんな吹奏楽部に入るのを横目に、私はソフトテニス部に入りました。「吹奏楽部に入るなら、中学は運動部に入ること」これが吹奏楽部に入部した時に母とした約束だったからです。本当はバレー部に入りたかったけど、人数が足りなくて私が入学した年に廃部となってしまいました。

運動もそんなに苦手ではなかったので、普通に毎日練習して普通に上達していきました。部活はそれなりに楽しかったけど、クラスの方は最悪でした。

中学1年のクラスで、出席番号前後になって最初に仲良くなった子が、いじめっ子の親分みたいな子でした。あの時の私は、本当に見る目がなかったと思います。その子が気に入らないと言った子はグループからハブかれる、そういう文化でした。それに耐えられなくて、何となくそのグループと距離を置くようにしたら、当たり前に自分が標的となってしまいました。

悪口、陰口、嫌がらせのメール、あることないこと噂されて、学校を休んだこともありました。ある時、学年主任と学級担任と顧問が家を訪ねてきて、親とも話をするレベルにまで事は発展してしまいました。その子たちとは、その後同じクラスになることはありませんでした。

中学2年で親友と呼べるような子と出会えました。それが、今一緒にルームシェアをしている通称「Kちゃん」です。中1の頃、私はあまり勉強熱心ではありませんでした。それに比べてKちゃんは頭が良く、いつもテストで良い点を取っていました。可愛くて足も速くて、Kちゃんは何でもできる子でした。そんなKちゃんと仲良くしているうちに、自然と自分も勉強するように変わっていきました。

部活では部長になり、中学3年でも引き続きKちゃんと同じクラスだったので、とても平和で楽しい学校生活でした。高校は、「Suicaをピッと改札にかざしたい」という思いと「可愛い制服が着たい」という思いがあったので、どちらも叶えられる電車通学の学校にしました。Kちゃんとは別の高校でした。

高校時代

何部に入るか迷いましたが、結局ソフトテニス部に入りました。新しいことを始める勇気がなかったんだと思います。高校1年の時は、全然部活のやる気が出なくて仮病を使ってサボったりしていました。黒髪に飽きて、ダイソーでオキシドールを買って頭にかけて脱色をしてみたり、「なんか面白いことしたくね?」となって放課後の教室で友達と障害物競走をしたりかき氷機を持ってきてかき氷を作ったり、隣の駅までチャリと原付で競争をしたり(チャリの私が僅差で勝利した)、割と楽しい日々を送っていました。

部活の先輩が、最後の大会で敗北して泣きながら引退していく姿を見て、「このままだと自分達も同じように引退することになるのでは…」という危機感を覚えました。今のままじゃ確実に悔しい思いで引退をする羽目になると思い、「ここから真剣に部活に取り組もう」と覚悟の意を込めて、長かった髪の毛を30センチくらい切ってショートカットにしました。

私は高校でも部長になりました。絶対にあの子が部長をやるだろう、という子に「◯◯に部長はやってほしい」と言われて、引き受けることになりました。なぜあの子はそう言ってきたのか、これは今でも謎が深いです。

そこからは部活の思い出しかありません。大会で1勝もできないような弱小チームだったので、何からまずやっていけばいいのか分かりませんでした。先輩たちの代までは、進学校だし部活よりも勉強!という色が強く、顧問の先生もあまり練習には来てくれませんでした。

「本気で変わりたいんです。だから先生協力してください。練習に来てください。」そう顧問に頼んで、先生と私たちとの二人三脚の日々が始まりました。授業中に練習メニューを考えたりテニスの本を読んだりして、授業が終わったら顧問のところへ行って練習の予定を組み直して、土日は練習試合をして、何度もみんなで方向性を話し合い、朝も自主練をしたりと…紛れもなくあの日々は青春でした。

結局、目標としていた「団体戦県大会ベスト8」というのは達成することができました。ただ、「個人戦関東大会出場」という個人の目標に関しては惜しくもあと一歩のところで敗れてしまいました。日曜が試合で、帰宅後涙が止まらず、次の日の1限の世界史の授業中もずっと隠れて泣いていたのを今でも覚えています。

部活を引退後、我々に待ち構えているもの。そう、それは「大学受験」です。夢もやりたいこともなかった私は学部決めや志望校決めに困りましたが、地方の進学校特有の国公立大学至上主義により、国立こそ目指すべきものだと思い込んでいました。

担任の勧めもあり、私は国立大学の体育系の学部を目指すことに決めました。学校紹介に「沖縄実習」とか書いてあって、なんか授業が楽しそうでいいなーくらいのノリでした。

高3の夏まで、部活に打ち込んでいた私は当たり前に勉強を疎かにしていたので、そこからは塾通いの生活でした。なんせ家で勉強できないタイプだったので、朝はほぼ始発で学校へ行き学校の自習室で勉強、夜は塾の自習室で閉館の22時まで勉強、帰宅後は現役国立大学生であった兄に分からないところを教えてもらう、そんな毎日でした。

…ちょっと思ったより長くなってしまったので、続きはまた書きたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました!


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