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短編小説「撫でる」

 僕の頭を撫でようとしたのだろう、彼女の細く白い手が目線の端をゆっくりと横切って行った。髪がさりさりと動く音が、頭上でする。

 僕は、決して頭が撫でられるのが好きなわけではない。むしろ、嫌いだ。
だけど彼女が僕の頭を撫でるのが好きなのを知っているので、それは口に出さないでおいている。勘のいい彼女は、きっと気付いているのだけれど。
 それだからか、彼女はとにかく僕の頭には途方もなく優しく触れる。もちろんそれ以外の部分に触れる時も彼女は、ひんやりとしたきれいな指で優しく僕に触れるけれど。頭だけは特別にやわらかいものか、特別に壊れやすいもののように、それは丁寧に触るのだ。
 その様子はどこか、茶席の「お作法」のようで、演技じみていて少しバカバカしいのだけど、それと同時に、ひどく愛らしくもある。僕の頭を撫でている間、彼女はいつも、僕を纏う空気をもすら優しく撫でようとしているようで、全身が愛に満ち、あどけなくやわらかな顔付きになる。

 十二分に頭を撫でると、耳、頬、首筋、肩、と、彼女の手はゆっくりと降りてくる。最初のうちはそれにどきっとしていたが、そこから事に及ぶようなことはほとんどなく、彼女はただ、動物の親が子どもを舐めて毛繕いするかのように、僕を愛撫する。
 事に及ぶことがほとんどない、というのはー、最初のうち、僕がたまらず手を出してしまっただけで、これは彼女からの「サイン」なんかではないのだ。もちろん僕たちは恋人同士なので、体を重ねることはあるけれど、この彼女の愛撫は純粋なる「撫でる」という行為であって、それ以外の何者でもないからだ。

 しばらくは意図がわからず戸惑っていたのだが、近頃では彼女が、お気に入りの大きなクマのぬいぐるみを撫でる、小さな少女にも思えるようになってきた。
 そして僕自身もクマの気持ちになって、動かず、ひそやかに、ひたすら彼女を見つめ、彼女の手のひらと指先から注がれる、彼女の悲しみや喜び、愛を、全身で受け止めている。

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