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短編小説「甘いコーヒー、苦いコーヒー」
美和子はヒーターの前で立ち尽くし、コーヒーの注がれた白く分厚いカップを握りしめた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
ほんの数ヶ月前までは彼の隣で目尻にしわを寄せて笑い、同じ食事を摂り、寄り添いあって狭いベッドで眠っていた。今もまだ、彼の象牙のようなひんやりとしたなめらかな肌と、その皮膚の奥にあるじんわりとした熱を覚えている。寒がりの美和子はいつもしっかりと着込んで寝床に就いていたが、彼と眠るようになって、心地よい湯船のような彼の熱に包まれ、しだいに冬も夏のような格好で眠るようになっていった。
それはまるで、自分の外にもうひとつ自分の皮膚があるようだった。別のものなのに元々は自分のものだったかのような気がした。この人はもしかしたら、遠い昔自分の一部だったのかもしれない、と錯覚さえした。彼の目を覗き込めば全てがわかるような気がしたけれど、当然そんなことはなかった。
体温の低い美和子は朝にコーヒーを好んで飲まなかったが、彼がいつも淹れてくれるので、断る理由もなく飲んでいた。それに、ふたりの初めてのキスは彼の飲んでいたコーヒーの味だったので、彼が淹れてくれるコーヒーを飲むのはそれを思い出させて優しく甘い気持ちになり、好きだった。
ある朝、コーヒーが切れたから買ってくるよ、とコートを羽織り、財布だけ持って彼は出かけて行った。すぐ帰るね、とまだベッドで微睡んでいた美和子に短いキスをして。
美和子はそのまままた浅い眠りに就いたが、いつになっても彼の気配がしないので、不思議に思い、ベッドの中から抜け出した。彼のいない部屋は静かで、時計の秒針だけが小さく鳴り響いていた。彼が出かけて行っただろうと思う時刻から、1時間以上が経っていた。
事故にでも遭ったのかと不安になり、自分の携帯電話を確認したり、窓を開けてベランダから外を眺めて見たが、ただただいつも通りだった。
もしかしたら、出先で友達にでも出会ったのかもしれない。もしかしたら、お財布を落として探しているのかも。考えても答えは出ず、彼がいつこの寒空の下から帰ってきてもいいように、温かいスープを作ることにした。
丸一日経っても、彼は帰ってこなかった。もしかしたら、と思って手元に置いておいたが、彼の置いて行った携帯電話にも、着信はなかった。昨日作ったスープはすっかり冷めてしまっている。
美和子は不安と寒さであまり眠れず、ぼんやりとした頭で仕事に出かけた。
その日の晩、ようやく彼から連絡があった。美和子の携帯電話に、電話ではなくメールがあった。自分の携帯電話がないので、インターネットカフェかどこかで自分のアカウントにログインし、メールを送ったようだった。
内容は、こうだった。
「美和子、僕はもう君の元へは帰らない。君のことは本当に大切に思っているから、どうか誰か他の人と幸せになってほしい。」
コーヒーを買いに行くと言ってふらりと消えてしまった一昼夜のうちに、突然他人のようになってしまった彼に、美和子はただただ驚いていた。ほんの数十時間前まで、彼の皮膚は美和子の一部のようだったというのに、今やまるで一億光年も離れた存在のように思えた。何が起こったのか、本当にわからなかった。
それから数日はこれが別れ話だということを理解することに精一杯で、ベッドに残る彼のにおいや、部屋にある彼の所有物を見て、涙が止まらなかった。
ようやく理解した頃、また突然メールが来た。今度は、普段の会話と同じような、今日こんなおもしろいものを見つけたよ、美和子は今日は何してた?といったような内容だった。
悲しみでいっぱいだった美和子の中に、突然怒りが込み上げた。あんな一方的な別れ話のあとで、よくこんなメールを送ってこられたものだ。
それと同時に、彼があのメールの前と同じように美和子に接することに、嬉しさがあることも気付いていた。
ふらりと消えた日のままの彼の所有物をぼんやり見つめ、これはどうする気なんだろう。携帯電話さえ持っていないのに。一体どこで何をしているんだろう。犯罪にでも巻き込まれたのかな。このメールを送ってきているのは、本当に彼なのかな、など、あらゆることが美和子の頭の中に湧いては消えて行った。
それからは、2日に1度くらいの頻度で彼からメールがあった。美和子は、もしかしたら彼は突然何かに疲れてしまって、あんなメールを送ってきたのかも。1、2週間くらいしたらひょっこり帰ってくるかも、と思い始めていた。だから、メールが来るたび嬉しく、待ち侘びるようにさえなっていた。
だけど、その日は来なかった。
痺れを切らして、会いたい、とか戻って来ない?と聞くと、ごめんね、とか、君のことは大事だけどもう一緒にはいられない、という返事ばかりで、文字上にすら彼の切ない表情が浮かび、美和子を余計に悲しくさせるだけだった。
美和子は彼の身勝手さに怒りを感じていたが、同時に彼の美和子への愛を今でもまだ感じており、前へも後ろへも進めずにいた。
彼が消えたあと、しばらく切れたままだったコーヒーを美和子はとうとう買った。久しぶりに口にするその苦味に一瞬戸惑い、ヒーターの前で立ち尽くしてしまった。
どうしてー、
答えは出なかった。言葉には出来なかった。
美和子がコーヒーの味に違和感を覚えたかのように、彼も美和子といることに違和感を覚えたのかもしれない。
美和子はコーヒーがこぼれないよう、そっとテーブルの上にカップを置いた。携帯電話がメール受信でチカチカと光ったが、美和子はそちらを見ず、口の中に残る苦味を感じながら、ただ静かに涙をこぼした。
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