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傷だらけの人生への賛美歌をあなたに、



部屋の整理をしていたら聖書と賛美歌が出てきた。
毎日礼拝があって、賛美歌を歌っていたあの学生時代はそれこそがめんどくさいと感じていたのに、今はその賛美歌をきっと心地よく感じてしまうんだろうなと想像する。


体調が良くないと、心が弱る。
心が弱ると元々ない自尊心がさらにマイナスになって、どれを選べば正しいのか分からなくなる。
田植えの時の田んぼみたいに足を動かすたびにどんどん沼にハマっていって、自分を見失いそうな閉塞感に苛まれているときに、未来の楽しい予定ができた。




あなたと一緒に行きたいと言ってくれる人がいることなんて、すごく幸せなことなんだと思った。
コロナになって、一度も会えてない友達に会いたい。あの頃みたいにみんなで笑い合いたい。その日を待ち侘びてワクワクしたい。そんな日々を思い出すと心がほっこりした。
わたしが多忙であることを心配して、裏側で話し合ってかつ重荷にならないように誘ってくれたこと、わたし本当にあなたたちと友達になれて良かったよ。





この頃はもう、誰かを殺したいと思うほど憎いと思うこともなくなった、と言えば嘘になるかもしれないけれど、つい先日もはらわたが煮えくりかえりそうな場面で苛立ちや涙を見せることなく平常心で対応し、この場でわたしが怒り散らしたら全てに迷惑がかかるという理由で飲み込んだ。


普通の30代の女の子の人生からどんどんはみ出て落っこちているわたしが、世間一般に言われる普通の30代の女の子の人生に勝てるわけはなく、それでもまっすぐに生きてきたことだけはわたしだけが知っている確かなことであって、あまりに気持ちの置き所がわからなくなって、なんとか一言だけ言葉を返した。すると、そのわたしの振り絞って言ったはずのなんてことない一言に対して「十分迷惑よ」と言い捨てられた。

そこからはマスク越しでもすごく不自然な笑顔で話を聞いていたと思う。そこは喫茶店であって、わたしの頭の中では、誰も何も言わないけれど、壁に体を押し付けられて頭からコーヒーをかけられる幻想を見た。それでも、そういうことばかりなんだ、本当にわたしの生きる世界は。全てが終わって、一人になった帰り道に、涙がこぼれおちた。あそこで泣かなかっただけでも、強さだと、そう自分に言い聞かせた。
何粒かだけ涙をこぼしたけれど深呼吸をしてすぐに平常心を取り戻して仕事場に帰って、何事もなかったかのように仕事をした。同じ境遇の先輩一人にだけ、どうしても自分の中で処理しきれずに愚痴を聞いてもらった。

すごくすごくたまにだけれど、そういう日がある。
気にしなければいいことはすごく分かるけれど、割り切ればいいことは理解しているけれど、
それでもなぜだかすごく悲しかった。
もっと昔は、そういう日は誰かを呼び出して飲みに行って、あなたのことが好きだよって友達に慰めてもらい、次の日も目を覚まして少し思い出して泣き、大好きなチョコレートを食べて夕方くらいになってやっとすごく少ない自尊心の一部を回復させた。
けれどもコロナ禍になり、それも難しく、もはや絶望や怒りにも慣れたもので次の日の朝には笑い話のネタにして自虐を交えて人に話せるレベルに回復していた。普通を生きられない自分が悪いのだと心底認識できるようになってから、回復が早くなったと思う。

昨日はあんなにあんなに悔しかったのに、今日はもう意外と大丈夫になっている。投げつけられた言葉のカケラは心に残っているけれど、話のネタにするには十分で、それが仕事である限り仕方のないことでそんなことばかりになってしまった。わたしの悲しみの賞味期限がどんどん短くなっている。



どんなに激しい感情も忘れゆく。
もっと悲しみや切なさが自分を真っ二つに切り裂くように痛感した時代があったはずだ。
ちゃんと痛くて、泣くことしかできなかった、そんな日々があった。
どんどん感情が鈍っていっている気がするけれど、多分それこそが世の中に適応していることであり、当たり前なのかもしれない。



生きていく以外のボタンを選ぶことは間違いなんだろうなと思うのは、未来に対して少ない希望を捨てたくないからだ。
一年もあれば人生が変わることをたくさんの経験から知っている。
今の経験が将来から見れば、ほろほろとこぼれ落ちる星の砂のようなものだったとしても、悲しみの賞味期限が少なくなったとしても、わたしとして感じたあの痛みは消えることはない。
繊細で敏感だからこそ、痛みを感じやすい場面が多いけれど、誰かに嫌われたくないというその根底にあるものは拭いきれないけれど、わたしがわたしとしてこれからも生きていく中で、どうか自分だけはちゃんと自分の味方でいられますように、と願う。



人生が続くことは後悔を増やす作業かもしれない。その種を撒き散らすことかもしれない。
それでもきっと全てに愛があって、それはいろんな種類のもので、どれも正しい。



大事な友達や大事な人が落ち込んでいるときには、きっと自然に大丈夫だよって言ってあげられるでしょう。それを自分にもしてあげよう、と思う。まだまだ大丈夫だよ、って。



悲しみは短い方がいい。
楽しいことはたくさんあって、悲しいことは少ない方がいい。現実はそうではないことの方が多いかもしれないけれど、あなたを見守ってくれる人はきっと、どこかにいるってことを覚えていなくちゃいけない。


あの日の自分を、また何年か後の自分が迎えにいけたらいいな、と思う。
いくらでも泣いてもいい。そのときの自分がそうすることでしか保てないのなら、それが正しさだから。


早く春になって欲しい。
未来の楽しい予定を、その時はきっと最高の笑顔で笑っている自分を、その時一緒に過ごしている人たちを想像するだけで、わたしは生きていけそうだ。




人に嫌われずに生きていくことはすごく難しいけれど、そこにフォーカスしすぎて自分を見失うことは違うと思うから、悲しみは一瞬、楽しさは倍増、そうなるように頑張りたいなと思った。





今はまだ未来に向かう道の途中、きっとそう。
生きるってレイヤードなのかもね。
何枚も重ね着をしながら、その種類を変えて、わたしたちは生きているのかも。



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