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[理系による「アート」考察] 物理ミクロ世界を描く仏教曼荼羅図

仏教美術にある曼荼羅ですが、仏様の世界や悟りの境地を描いたもの、の意味のようですが、一般的に見かけるのは、中心の仏から円上、もしくは四角上に広がる仏の羅列を描いたものになります。

国立博物館に展示されていた曼荼羅図

ゴリゴリ理系からすると、これらの絵は、美術的鑑賞対象ではなく、原子の電子配置、および原子の結合図にしか見えないのですよね。

原子核が発見されたのは1911年なのですが、東洋哲学である仏教にて曼荼羅図が描かれていたのはもちろんそれより前であることより、仏教にて悟りを開いた高僧は実はミクロ世界である原子核-電子の存在を実は知っていたのでは?、と思われてならないのですが、自身の推論を記載しますね。

仏教にて悟りを開くために行う活動としてメジャーな方法は瞑想です。自身も一時瞑想に凝ったことがあるのですが、ある程度深く入ると、自我境界(自分を自分たらしめている境界)が曖昧になり、自分が自分でなくなるような感覚に陥ります。理系的に表現すると、原子レベルでみると自身とそれを取り囲む空気・物体・人物とはあまり差分がないことを脳が認知し始めます(ミクロ世界だと、原子核と電子があるだけですからね)。

自身は、自分が自分でなくなるような気がして怖くなって、ここで瞑想を止めてしまったのですが、さらに深く入っていると、恐らく自我境界が完全に取り払われ、ミクロ世界(原子の世界)が意識できるようになるのではないかと予想しています。

仏教は本来煩悩から解放される手法を研究する哲学・学問なので、瞑想により自己とそれ以外は本来違いがないことが理解・体得できたならば、それは煩悩から解放された状態(煩悩は他者との違いから来る悩みにより起こるものがほとんどだから)、つまり悟りを開いた状態になり、仏教として目標としていたところに到達した、ということになるのです。

ただ、悟りを開てない修行者が、悟りを開いた状態とはどういう状態か?、という質問をするのは至極当然のことで、その質問に対して回答を与えたものが曼荼羅図なのではないかと想像しています。つまり、悟りを開くとは、世界は曼荼羅のような状態でできていることが瞑想により見えた・体得できた状態、と分かりやす解説するための資料なのではと。

・東洋では、悟りを開く過程において、原子を認知
・西洋では、真実を求める過程において、原子を認知

とアプローチ方法は全く違えど、同じように物理ミクロ世界を認知するに至ること自体がとても興味深いのですが、恐らくミクロ世界の物理学である量子力学や超弦理論も、仏教ではかなり前から瞑想による体験から理解しているんだろうな~、と予想しますが(ただし、論理展開する手段がない)、脳の認知能力のポテンシャルに驚愕しながら、国立博物館の曼荼羅図の前でニヤニヤしている最近のゴリゴリ理系でした~、で終わろうと思います。


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