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久石譲のsummerってめちゃくちゃいいな。誰が作ったんだろう。

これは先日Twitterで見かけたバズツイである。(もちろんネタである)
文法的に全く問題がないし、意味的にも問題がないとも言えるこの文章だが、明らかにおかしいことは私たちにはすぐにわかる。
久石譲が作曲したsummerなので主語、述語、目的語として考えるべきだが、名詞句として取り込まれていること。
Summer composed by Joe Hisaishiが
Summer of Joe Hisaishiになっているのだ。
久石譲が作曲したということがわからない人にとっては、可能性としてはあり得なくもないミスだ。
いや、あり得ないけどね(笑)
つまりこれは言語の多義性が引き起こした偶発的な笑いである。
久石譲の「summer」と「久石譲のsummer」では全く意味が異なるのだ。
統辞と意味が複雑に絡み合っていることを示すわかりやすい例かもしれない。
「井上陽水の少年時代」とか、「椎名林檎の罪と罰」とか、「中島みゆきの時代」とか。
言葉が本当に複雑で脆弱な基盤の元に成り立っていることがよくわかる。
そりゃ、うまくコミュニケーションが取れないことの方が多いわけだ。
だから自分の意図していることがうまく伝わっていないからといって、凹んだり、腹立たしく思う必要はない。
むしろその方が自然で、言葉を交わしていく中で、その時のルールや意図を探っていけばいいのだと思う。
久石譲のsummer的事故だと思えばコミュニケーションの齟齬に対する心理的負担が軽減されるかもしれない。


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