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should less

我思う、故に我あり 
〜ルネ・デカルト〜
方法序説

SNS

「努力は必ず誰かが見てくれています」って言う先生の言葉に「マジか、努力にプライバシーなしだな」ってつぶやいた岡田君元気かな
Twitter

私はSNS中毒だから、どうしてもビジネス成功者っぽい人や、学歴や社歴をうまく利用したインフルエンサーのようなアカウントがタイムラインに出てくる。
彼らは非常にキャッチーで魅力的な言葉を用いてフォロワーを満足させる。
とにかくすぐ行動すべき!
失敗してから考えればいい!
人生は一度きりだから、やりたいことをやるべき
自分らしく生きるべき!などなど
ああいったキャッチコピーは、フォロワーを増やしたいだけなのか、本当にそういう信念があって啓蒙しようとしているのか。
あるいは両方か。

社会化

人間はただひとつの次元、すなわち社会的次元に還元されてしまった。…技術社会は人間を知らない。社会は市民という抽象的な形でしか人間を認識しない。
〜ゲオルギウ〜
「二十五時」

別にこの内容自体はどうでも良くて、私の言いたいことは、個人が情報発信できるようになったSNS時代には、こういった魅力的なコピーが、あるいは発信者の肩書きそのものが、影響力を持ちすぎてしまう場合があり、そのことに意識的になってもいいのではないだろうか、ということである。
つまり、ある特定の、社会的地位の高い人や、あるいはコピーが上手い人たちによって、無意識的に価値観や思考が強迫されている人たちが少なくないのではないか。
ある人にとっては良薬で、ある人には毒薬である可能性を含む、強烈な言葉や思想を一挙に発信し、その双方に影響を与えるのがSNSの機能の一つの側面としてあるのではないだろうか。
そして、インフルエンサーとして巨大になればなるほど、良薬なのか毒薬かどうか分からなくなる。
これは社会や組織、文化がそもそも持っている、思想やイデオロギーを作り出す機能が、SNSでも生じているということだと思う。
SNSはそれがより可視化され、社会と個人との距離が縮み、個人が消えつつある。

空洞化

信実と誠実となくしては、
礼儀は茶番であり芝居である。
〜新渡戸稲造〜
武士道

SNSは外面はかっこいい言葉で飾られているが自分で考えたプロセスがない、精神が空洞化している、1番モロそうな人を作りかねない。
自分で決めなくても、すぐにかっこよくてそれだ!的な答えがスマホの中にあるからだ。
さらに、綺麗な外面に対して、実体がついてこないことによる、コンプレックスも生じかねない。
(論破とか、自己投資とか、元々自分に不安になりがちな若者に刺さるような言葉や考え方がやっぱりウケているように思う。)
だから最近の自分で考えない若者が増えたと、大人に言われるのかもしれない。
もちろん、若者だけが悪いわけではないし、考えない大人も同じく多いように思うけれど、やはりその言葉は一部正しいと思う。

綺麗な花には棘がある

他人より優れていることは気高さではない。真の気高さとは以前の自分自身よりも優れていることだ。
〜ハリー〜
キングスマン

なになにすべきだ、という強くて美しい言葉は薔薇と同じで、綺麗な花には棘があるものだ。
薔薇が似合うのは、洗練された紳士淑女である。
つまり、薔薇を扱うには、まず最初に自分を磨く、つまり、胸に手を当て、自分の信じるものは何かを考えていくべきではないだろうか。

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