【エッセイ】自分は自分じゃないかもしれない
時々思うの。
なんていうか、「私って本当は私じゃないのかも」って。
いきなりこんなことを言ったら、二重人格なのか?はたまた変人か?
なんて烙印を押されてしまいそうだけど、
まぁ10代の乙女じゃないんだし、そんなことはどうでもいいのよ。
人にどう思われるかとか、可愛くいなきゃいけないとか今更大した問題じゃないもの。
…..まぁ、そりゃぁね
本音を言えば好きな人くらいにはそう思われたいけど。
アラフォーともなれば、それよりももっと大事なことって色々あるじゃない?
でね、思うのよ。
辛いこととか苦しいことがあった時なんて特にさ。
こんなフェーズ辿らない?
そう、途中まではザップンザップン大波で揺れているボートも、だんだんそれを過ぎてくると、まるで大海で遭難したように、「あーもう、助からないんだろうな。なら、遺書でも書き残しておこうか。」的な。
「銀行のパスワードは〇〇で、ハンコは4番目の引き出しにあります。最後にお母さんのつくるオムライス食べたかったな。。。大好きでした、ありがとう」みたいな、そんな境地にたどり着くこと。
別に、諦めたくてそうしたわけじゃないけど、もう自分の中で限界値超えたなって時。
そんな時って、悟りの境地というか、一種の凪というか、考えること自体を辞めることで自分を守ろうとするあの感覚。
ほら、映画タイタニックのお話でこんなシーン見たことないかしら?
沈みゆく船を前にした時、足掻く人もいれば、そのフェーズを超えて頭をからっぽにして愛し合うこと選んだり、音楽を奏でたり。
人って、ある自分の中にあるボーダーラインを超えてしまった時、受け入れられないキャパシティに戸惑い、最初はどうにかしようと藻掻くけれど、「あーそれも通じないのか」そんな風に感じた時、まるでロボットのスイッチを切るように自分自身の心もOFFにしてしまうことってあると思うの。
そうすることで、本能的にそれ以上傷つかないように自分を守ろうとするみたいなね。
でね、私が言ってる「自分が自分じゃないかもしれない」っていう感覚。
これってきっと、言語化しにくいだけできっと感じたことがある人っていると思うのよ。
違うかしら?
なんていうか、、、
「我思う、故に我あり」っていうフランスの哲学者デカルトの言葉はあまりに有名だけれど、この逆バージョンとでも言うのかしら?
正確に言うと逆バーションではないのだけれど、派生したとでも言うのかしら?
目の前に受け入れがたい現実が存在している時、そこからふ~っと意識が飛んでいくような感じ。
デカルトが唱えたように、今感じている痛みも苦しみも幻想かもしれないし疑いえるもの。
尚且つ、確かにその意識も存在している。
だけど、意識を感じているこの”自分???”という存在は、ホンモノデスカ???という感覚。
ふっと目を瞑って夢の中に潜り込むように意識が別の次元に行った時、目が覚めたら全く違う人の中の思考にジャンプしていて、それがもしかしたら自分かもしれないという感覚。。。。。
え、分かるかな?w
この、哲学と言うには心もとなく、奇人と言ってしまえば鼻で笑われてしまいそうな思考に時々陥るんだけれど、物書きをしているとこれが割と悲しいとか辛いとか、そういう時じゃなくても起こる時があるのよね。
誰かの思考に想いを馳せながら物語を創作してみたり、誰かになりきってみたり、心の内側に頭の中でダイブしてみたり。
そうしている内に、はたして本当の自分は今いったいどこへ行ってしまったのか?
そんなパラレルワールドに迷い込んでしまうのよ。
同じような感覚を経験したことのある人、いらっしゃらないかしら?
世に存在する多重人格症なんていうのも、もとを辿れば心が傷つくのを避けるため別の人格になりきることで自己防衛するなんて話も聞きますよね。
私の場合は、それとはちょっと違うんだけれど、日頃から想像と創造の世界にどっぷり浸っていると、あの世とこの世を行ったり来たりするように、魂の袋のようなものがヒュルっと抜け出て、時々散歩に出かけてしまうのかもしれない。
「私って、本当は私じゃないかもしれない」
「自分は、自分じゃないかもしれない」
答えのない愚問はぐるぐると頭の中を行ったり来たりし、まるで森見登美彦さんの小説「四畳半神話大系」に片足を突っ込んでしまったような気持ち。
だが、そんな同時並行世界を漂うのも、なんだか面白いじゃないかと思える今日このごろ。
今日も私はこうして、日々徒然なるままに物書きをしている。
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