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映画「南極料理人」を観た話。

最近、映画製作に興味があって、様々な本を読み漁っている。映画監督が書いたエッセイから、実践的なHow to 本まで手当たり次第に読み、しかし、どの書籍にもハンドブックにも、必ず共通して書いてあることがある。

それは「飯を疎かにするな」という一言だ。


当然のことであるが、映画作品などの撮影は過酷を極める。演者もスタッフも、皆体をすり減らして日々作品を作っているわけだから、その体力の根幹となる飯をふんだんに提供することは作品の出来に直結してくる。ということらしいのだ。

一見なんてことない話じゃないか。たかだか飯ぐらい。とお思いの方もいらっしゃるかもしれない。が、ものの見事にどの本を読んでも、「飯は大事にしろ」という言葉は絶対に書いてあるのだ。よほど映画と飯は切っても切り離せない存在・・・というより、「仕事」と「飯」は切っても切れない関係性なのかもしれない。


仕事と飯。

その切っても切れない関わり合いを

感じられる映画がある。

堺雅人さん主演の「南極料理人」。

(現在、Amazonプライムビデオなどで配信)


この作品の舞台は、南極大陸にある「ドームふじ基地」。気温マイナス50度を数え、動物はおろかウイルスや細菌の類すら死滅する地球の極限に送り込まれた南極観測隊。その中の、堺雅人さん扮する基地の料理担当隊員が「食事」という視点から南極での生活を語るという、エッセイ風味な映画である。

以前、テレビ東京で「面白南極料理人」という深夜ドラマが放送されていて、この「南極料理人」とは原作が全く一緒という共通点がある(キャストやストーリーなどの相違点はあるものの)。2009年公開の映画で、当時は結構話題になっていたような記憶がある。


で、この映画なかなかおもしろい。

先日「まともじゃないのは君も一緒」のレビューを投稿していたが、この「南極料理人」もコメディ色強めのヒューマンドラマになっている。

作品に登場するドーム基地の南極観測隊のメンバーには、それぞれ「気候観測」や「通信」「車両」など、基地を運営するうえで必要な仕事が割り振られている。毎日隊員たちは、分厚い防寒服を着込んで動きにくそうにもそもそ働いている。観測機器を設置したり、氷の大地を掘ってみたり、天候観測したり。

とにかく毎日過酷なわけだが、だからと言って基地から抜け出すわけにはいかない。基地の位置する標高はおよそ3800メートル。最寄りの昭和基地まではその距離1000キロ。逃げ場はない。休日もマイナス50度の世界だから簡単に外に出て遊ぶわけにもいかない。


だから、結局基地にこもるしかない。

そう、南極には「楽しみ」がないのである。絶望的に。


だからこそ、食べることは唯一と言っていいほどの娯楽であり、息抜きであり、単調で閉鎖的な環境に与えることができる変化なのだ。そりゃうかつに外出たら凍って死ぬような環境に一年放り込まれたら人間まともな精神状態ではいられまい。そういった隊員たちの精神的支柱を担っているのが、毎日の食事なのだろうなと思う。


考えてみれば、便利な時代である。

コロナ禍でもスーパーやコンビニは毎日しっかり営業され、店にはたくさんの生鮮食品や惣菜が毎日並び、腹が空いても困らない。家の冷蔵庫にも常に新鮮な食料がいっぱいある。これだけの世界的パンデミックでも飢えて死ぬことはなかった。でもその分、食料廃棄・いわゆるフードロスの問題も解決するべき至上問題として議論がなされている。

この「南極料理人」には、いわゆる料理とか食事をテーマにした映画とは違い、「食料に限りがある」という制約がある。作中ではストックしていたインスタント麺が底を尽き隊員が絶望を感じたり、隊員がストレスでバターを塊ごとかじりだしたり、食べ物が尽きることによる悲観というのが描かれている。

この制約と悲観こそが、作品の根幹を担っているのではなかろうか。

最近深夜ドラマなどで特に流行りの、いわゆる「飯テロドラマ」。これも私はどちらかといえば好きだ。でも、食べるのに全然困らない!という明るい話よりは、限られた食料と過酷な環境の中で、どんな工夫を凝らして食いつないでいくのかとか、そういう人間の知恵が詰まった作品のほうが魅力的なんじゃないかな?と、この作品を通して感じた。


夜、疲れて家に帰ってくる。さっとそうめんを茹でて、コンビニで買ってきたツナとサラダを載せてめんつゆをかける。即席サラダそうめん。瑞野が夏場疲れているときによくやる、手抜き自炊である。

ああ、きょうも飯がうまい。



おしまい。



〜瑞野蒼人の映画レビューシリーズ〜

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