見出し画像

山崎ナオコーラの言葉を愛し始めた私

最近の私は、エッセイ本を連続して読んでいた。すべてに共通していたのは、私が小説を読んだことのある作家さんのエッセイ本であるということ。あとは、たまたま女性ばかりだったけれど、それは重要なことではない。

個人的エッセイブームでの気づき

とっかえひっかえ読んでいるうちに気づいた。小説よりもエッセイの方が好き嫌いが激しくなる。ストライクゾーンが狭くなる。

単発のエッセイひとつ、読んだだけでは感じなかった。エッセイが集まって一冊の単行本なり文庫本になったときに強く実感する。この作家さんのエッセイは大好きだ(あるいは、残念ながら、苦手だ)という、全身に鳥肌を立てる感覚。

山崎ナオコーラさんの言葉を愛し始めた

山崎ナオコーラさん。今回の個人的エッセイブームで一番愛してしまった人。山崎さんの小説は『ニキの屈辱』しか読んだことがないのだけれど、その時もかなりの満足感だったことを覚えている。

自己愛と偏愛とプライドがお互いの心の中で渦巻いてこんがらがって破滅する。評価が不確かな職業についているからこそ増大する不安が、恋愛相手へのプライドとしてかたちになっていく様が心理表現として秀逸。

これは当時、『ニキの屈辱』に対して書いたレビューなのだけど、秀逸って何様なんだろう。とにかく、好ましかったんだと思う。

今回読んだのは『指先からソーダ』。ついつい、ハライチ的イントネーションで読んでしまう自分に苦笑。指先からソーダ、明け方からゲーム……色々思い浮かびそう。

『指先からソーダ』で知ったのは、山崎さんの言葉へのこだわり。小説へのスタンスや言葉との向き合い方を知り、憧れに近い感覚を抱いたのだった。

『ニキへの屈辱』で感じた魅力もきっとストーリーじゃない。言葉を、ひとつひとつ、丁寧に紡いで、創り上げた芸術作品に胸を打たれたのだと思う。「言葉を紡ぐ」という言葉がよく似合う作家さん。文章から受け取る、心を動かす結晶をどう採掘するかは、読者に委ねているんだ。

とはいえ、こちらは2007年に書かれたものだから、最新のナオコーラさんを知るためにもっと他の作品も読まなければならないだろう。そんな山崎ナオコーラさん初心者の私が、こんなものを書いてしまって申し訳ございません。でも心を動かされたので、書いています。

『指先からソーダ』で私が偏愛している言葉たち

『指先からソーダ』には、これから心に、指先に留めておきたい言葉たちがたくさん詰まっていたから、私はここにそれをいくつか書き留めて、愛し続けたいと思っている。

私もいつか、本を作ってみたい。本は、人間の世界から離れることがないが、人間とは違う視点を持っている。たとえば、よく知っている塩でも顕微鏡で覗くと可愛い形に見えるものだ。私はプレパラートを作るように文章を書きたい。(P73「澁澤に学んだ、本の効能」)

プレパラートを作るように……!言葉を標本にして眺める。私はそんなことを想像して、言葉が産む結晶のかたちを想像する。

音楽や絵画のように、言葉を楽しみたい。意味を二の次にして、快感を優先して。(P91「文法は法律ではない」)

言葉は意味を伝えるもの。そんな役割を無視して、芸術として、楽しむものとしての言葉がここに存在した。そして、その言葉の芸術には快感がある。

私は、誰かの触感を、言葉によってくすぐりたい。相手の頭の中の曖昧でもやもやしたものを、規定はせず、くすぐるだけの、絶妙な言葉を紡ぎたい。(P106「地球の触感」)

めちゃくちゃくすぐられていることをここに告げる。

私は映像イメージが湧くようなものや、ストーリーにうっとりするようなものは書かない。言語表現として面白いもの、ぎりぎりのもの、甘くて硬いものを書きたい。(P172「受賞の言葉」)

この後、甘くて硬いの意が綴られていく。この受賞の言葉、生で聞いてみたかったな。

とにかく芸術として、ちゃんと小説を作りたい。(P194「くすぐりたい――リアルについて3」)

あああ、ありがとうございます。虜。

ということで、これから私は山崎ナオコーラの旅に出発します。

この記事が参加している募集

推薦図書

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?